国際和解映画祭に寄せて
本年(2021年)、七月一〇日と一一日に早稲田大学の大隈講堂にて、国際和解映画祭が予定されている。この国際和解映画祭開催にあたっては一般社団法人全日本テレビ番組製作者連盟、並びに、日本放送作家協会から後援をいただき、それぞれ脚本審査と映像審査に深く関与いただいている( https://www.eriff.org/)。
思い返せば、この映画祭開催の直接のきっかけは、二〇一九年の一一月に、当時の韓国国会の文喜相議長を、早稲田大学国際和解学研究所主催で高麗大学民主平和研究所と共催の基調報告にご招待申し上げ、その後に開催されたシンポジウムに集った学生たちと、夜遅くまで日韓の未来や和解について語り合ったことであった。日中韓のビジネスモデルコンテストを毎年三国で開催してきたという学生がいて、彼がシンポジウム終了後、私に声をかけてきたことが、映画祭開催につながった。当日は、議長が去った後も、約一〇〇人の学生が会場に残ってたくさんの質問をし、また壇上に上がったパネリストも、今回の議長提案が、初めて韓国の政治リーダーとして、上皇陛下についての自分の発言により傷付いた日本国民への「謝罪」を表明したものであったとし、戦後史の記憶を呼び覚ましつつ日韓の行き詰まった関係改善を「代理弁済」方式を提示して訴えたことは、歴史的なものとなるかもしれないと大いに盛り上がった次第であった。実際の報道は全く別なものであったが(『Journalism』三五六号参照)、あの時集った学生こそが一番の遺産ではなかったかと思う。「我々も和解のために何かをしたいのです」、そう言ってくれた声に押されながら、今まで和解学を支援してくれた方々のネットワークが不思議と結びついて、映画祭という形になった。まだ最終選考の結果は出ていないが、脚本だけでも、一四〇本の応募が日本語のみならず韓国語や中国語、英語でも寄せられている。
国際和解学研究所へ一般から寄せられた少額ではあるが幅広いご寄付と、東アジア国際和解映画祭学生実行委員会によるクラウドファンディングによって、この映画祭は開催される。できれば大型のご寄付を、映画やテレビを作っているような協会の関係者の方からいただければ…と願わなかったことはないが、何分にも実績はまだないため、今回の初年度は、個人ベースでの協力を関係者の方から得られたにとどまっている。しかしながら、実はアジアドラマカンファレンスという関係者の会合が、すでに映画やテレビ関係者の間で設定されている。コロナでこうした会議が開催できない間に、和解の裾野が映画祭でさらに広げられることを願わずにはいられない。
日本のテレビドラマが韓国のそれに比べてつまらないものが多いことは、よく指摘されるが、実際に関係者の間では、世代交代をしなければという問題意識が痛感されている。昨年の早稲田祭で国際和解映画祭実行委員会のおかげで、脚本家の大御所、竹山洋氏と対談させていただいたが、その際、ご執筆されたNHK大河ドラマの『利家とまつ』や、『ホタル』という高倉健主演の映画の話で盛り上がったが、特に、若い頃に脚本家を志した時代の給料のない書生生活の苦労話が大変印象的であった。
日本社会ではドラマや映画の制作に実際にお金を出す会社が、実質的な著作権を持ってしまう実態があり、新たなクリエーターに、十分な収入が配布されない。そのため今のご時世では韓国のそれに負けてしまう。深い着想を持ったクリエーターが育ちにくいと言うことも伺った。韓国では一つのドラマが当たって一億円の収益があれば、その一割の収益は、最初に脚本を書いたクリエイターに回る仕組みがある。日本の漫画家がたくさんの助手を雇っているのと同じように、脚本家が大勢のスタッフを雇って、面白い脚本を書くのが韓国流だが、日本の脚本家は契約によってその権利が十分に行使できない状態にあるという。他方で、アジアに市場が広がっているために、面白いドラマの収益は非常に巨大である。ガラパゴス化してしまった日本語だけの市場では、今後の日本のテレビドラマは生き残っていけない。実際に、『半沢直樹』などのテレビドラマやNHKの「弁当エキスポ」が、中国やアジアで放送されつつあることは、今後の日本のテレビドラマの新しい方向性を示している。
映画でもドラマでも、和解は普遍的なテーマの1つである。同じ文化の中での親子、きょうだい、友人、恋人間の出会いと別れ、主人公の成長、そして和解というわかりやすいシナリオの延長に、異なる言語と異なる文化、そして異なる記憶を架橋し、インスピレーションを与えるような未知の和解作品は構築できないものか。(続)
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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