和解学と歴史学
歴史学的見地から「歴史問題」を見ることは、歴史に埋もれた未発の選択肢を浮かび上がせるのに貢献するであろう。「被害者」救済は、韓国から見ると、過去の植民地統治のみならず「民衆」と遊離した政権の不正を正す問題として内政にも関係する問題であるのに対して、日本政府の側としては、それはすでに「戦後」「処理」の一部として終わった問題として位置づけられることで、関係悪化の構造が生じていると述べてきた。しかし一九八〇年代に行われた韓国人原爆被害者やサハリン韓国人帰国問題において、日本政府は超党派的な合意のもとに、「道義」的問題としてこれらに積極的に向き合い、韓国側もそれを受け入れた。その背後には、韓国の政権の弱さがあり、日本の自民党政権優勢時代の強さがあった(木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房二〇一四年)。
また、実は一九六五年体制には、のちに交渉中に議論されなかった問題が噴出した場合への対応をめぐる解釈に幅がありそれが現在につながっている(金恩貞『日韓国交正常化交渉の政治史』千倉書房)。また、慰安婦問題が噴出した一九九〇年代当初、韓国政府は国内で自国の問題として解決する方針であったにもかかわらず、一九九二年一月に当時の宮沢喜一首相が訪韓して謝罪外交を展開して日本に戻った直後、日本に「適切な補償」を求める姿勢に転換したことも明らかになった(木村幹前掲書)。また、木村氏は同年二月の国連人権委員会の場で国際教育開発の副代表戸塚悦朗が、人権問題として慰安婦問題を最初に位置付け好評を博し、それが韓国の市民団体挺対協が八月に同委員会で発言する機会を得たきっかけになったことも明らかにしている。
こうした研究こそ、「怒り」「喜び」等の感情と、それを支える「人権」や「豊かさ」という価値をとりまく政治や外交交渉過程、そして歴史的社会構造の根底にあるものを扱おうとする歴史学研究の成果である。
実際、人権と豊かさという価値を念頭に、広く国境を超えて展開された「開発」をめぐる歴史学も近年盛んである。かつて一九六〇年台後半まで、開発はある国家内の社会全体の経済的富の増大と、それに対応する投資・生産・貿易・消費の拡大を意味した。経済的パイを増やすことで社会の末端にまでやがては恩恵が行き渡るはずと思われたからである。しかし、一九六〇年代末期以後は、汚職や不効率からの途上国内部の格差拡大と、債務超過によって、開発の方針は社会全体のパイの拡大から、個人の「貧困削減」と「個人の尊厳」維持と「生活の質の向上」、そして近年は「社会参加」へと転換している。
他方、イングルハートなど(Ronald Inglehart)一部の社会学者からは新しいバージョンの「近代化論」が近年復活している。発展がなければ民衆個人の「人権」や「女性の尊厳」等の「自己表現価値」が優勢となる前提は生まれないからである(佐々木豊「開発援助における「近代化」と「開発」をめぐる言説の変遷」)。 こうした開発政策史の動向は、近代化に象徴される社会全体の「豊かさ」という価値が人権や尊厳という価値と不可分であることを間接的に裏書きしているのではなかろうか。つまり、韓国社会内部で展開しているところの、市民運動による歴史の精算を掲げた「人権被害者」救済の運動は、一九五〇年代以来の米日による韓国への経済協力が生み出した豊かさ、民主化の延長にある。
同じ民主社会であっても、日韓の間で「歴史問題」が絶えないという現状の歴史的背景には、韓国の「被害者」が人権や自由という普遍的価値とストレートに結びつくのではなしに、国民的な抵抗の記憶がそれを支えるという言説の構造があり、その中で「反日感情」と括られがちな集合的感情が生まれるためと考えられる。
他方、日本では明治維新以来、内発的な近代化が藩閥と地方の保守層を推進力として展開されてきたために、民主主義という理念を支える記憶は、むしろ「豊かさ」や「平和」(「おしん」の物語に象徴される)という社会の全体的な価値と融合する傾向が生じるという対極的な言説構造があると言えるであろう。本来は、二つとも不可分のはずの価値が、対極的に各国民的記憶と融合することで、激しい歴史戦争が加速するのではなかろうか。
感情が生み出される歴史を、経済と社会の制度やその制度変化過程に伴った記憶や、それを濾過し選択させる価値と関係させて捉えることで、自分と社会に生きて働く感情の存在を認識できる。それを互いにみつめあいながら、対話によってともに変化させていくことに貢献することこそ、和解を意識した歴史学の課題といえよう。
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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