和解学とコンストラクティビズム理論
歴史を全体としてどのように認識するのかという問題は、単に過去の問題ではなく、未来をどのように構想するのかという問題と極めて密接な関係を持っている。その意味で、本来は世界全体で不可分であるはずの歴史を「国民」という単位ごとに認識するに際して、いかに国際的摩擦が生じてしまうのかという問題について、それを議論の上に乗せる方法を、従来の国際関係学や比較政治学を拡張し作ることが必要である。
今月は、その課題に有効だと思われる国際関係学の中の方法論であるコンストラクティビズム(「構築主義」と訳される)に注目したい。
構築主義理論は、国際社会における国家や企業・NGO等のアクターが、社会や市場の中で、そのルールを内面化しつつ、自分で判断し行動するという自律性を、社会的に構築されている主体であるとみなす。そのように規定しながら、分野を禁欲的に設定して、いかに新しいルールがその主体に取り込まれるかに注目する理論である。つまり、現在の世界で次々に新ルールが模索されている分野としての、環境や貿易面を中心に、新しい規範や価値が、いかにしてアクター間、およびアクターと国際社会全体との相互作用(反発・葛藤)を経て内面化されるのかを議論する(大矢根聡編『コンストラクティヴィズムの国際関係論』有斐閣、二〇一三年)。
この着眼を拡張し、経済、文化、政治を包括する集団としての国民そのものが、実は、国際的な権力政治(十九世紀に頂点を迎える)の中で生まれ、今日に至るまで存続している力学にまで拡張することはできないか、それが和解学の基本的な着想である。
国民という集団がいかに社会的に構成されて、想像の中で存在するようになるのかについては、ナショナリズム研究が存在するが、大事なのは今も国民が民主的に再生産されている点、内面化された民主的価値は国民ごとに異なるが、激しく他者を意識しあっている点である。そここそが、歴史摩擦を構築主義から考える糸口である。
確かに、現代の構築主義が想定するアクターは、あくまでも、安全保障、経済、人権など、分野に限定されている。しかし、国内政治の中で、新たな規範(例:大規模店舗法やSDGs等)が、国内の伝統文化や家族・商業慣習という形をとった「伝統規範」と摩擦し、調整と「共鳴」を経て、内面化されていく過程は、経済のみならず文化や政治を包括し各分野にまたがる。「系列」や「問屋」をめぐる日米経済摩擦を想起すれば十分であろう。
国際的規範として提示されたものと、国内の伝統とが「共鳴」するか否か、経済や人権に関する新しい国際規範が受け入れられるのかどうかをめぐる分析枠組みは、まさに歴史問題を扱うに相応しい。例えば、「SDGsに貢献する企業」や「ESG投資」が国内の新規範となった過程では、アイディア自体の正当性に訴えながらも、従来の既得権益層の民主的説得があったはずであり、利益の体系と融合した「伝統」の変化も不可欠である。
同じ手法を今度は、国民という集団が民主社会を維持するために無意識に依拠してきた価値(や伝統)との関係から、「女性の尊厳」や「人権」という価値が、歴史を遡及して国内に定着・反発を受ける過程に適用できる。その際には、日本人の慰安婦、空襲被害者、従軍看護婦に象徴される、歴史的に救済されてこなかった日本人の救済と併せて、韓国人慰安婦の救済も対象となる。今日の混乱は、共鳴と反発をめぐる摩擦過程に他ならない。
日本社会の「反発」を支えているのは、法的手続きの正統性である。すでに処理されたはずの「戦後処理問題」であるという論理の根底には、戦争被害を国民は「受忍」する義務を負うという判決が存在してきた(波多野澄雄「「和解」 政策の射程と変容」『和解学の試み』二〇二一年)。被害を受忍してこそ、国民の団結と日本の経済成長があり「豊かさ」の達成があった。「豊かさ」こそが、日本の民主主義が結合した普遍的価値だったと私は考える。
しかし、今日問われるべきは、民主主義とは「豊かさ」が全てなのか、そもそも「豊かさ」は何のためであったのかという問題である。豊かさの追求のために犠牲にしてきたものに目を向ける時期にきてはいないであろうか。従来の「豊かさ」の定義を変えることは考えられないであろうか。今の歴史をめぐる衝突を逆利用し、隣国の国民が、いかなる感情をもち、その感情はいかなる記憶で支えられているのか、その記憶を選び出している背後の価値とは何か(豊かさ故に犠牲にしてきた何か)を思いやることも可能となろう。国民社会に共感を呼ぶ価値を互いに思いやり、競争もする時代に我々は生きている。
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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