開発学に見る「近代化」の意味変容が示唆するもの
今回は、前回問題提起した国民に共有される価値や記憶を、ではいかに認識するのかという話である。日本文化論という分野があるが、自分はこう思う/いや思わないという水掛論になる傾向がある。社会に共有される価値をグローバルな視点で論じてきた開発学での社会発展の方向性をめぐる理念的議論を柱にしてはどうかと思う。
経済発展を基調とする開発の行き着く先はどこか。中国が異なるモデルを、つい最近堂々と示すに至るまで、そのモデルは先進民主主義国であった。民主という制度を共有しても歴史摩擦は起こる。歴史記憶の共有によって国民集団が創造され、その枠の中で記憶と結びついた特定の価値が社会を「構成」しているからだ。記憶と価値の結合体が「国民」を我々の頭の中に想像させ、その枠の上で初めて民主主義が憲法をベースに機能する。
歴史認識問題とは、こうした記憶と価値の結合体同士の摩擦に他ならない。和解に向けて注目すべきは、「開発学」で鍛えられてきたところの、社会全体の変化をどのような方向に向けて誘導したらいいのかという議論に関する概念である。そもそも「開発」は、国民という単位でられる社会を対象に展開されたが、 かつて一九六〇年台後半までは、開発=国家的富の拡大であった。ゆえに独裁も正統化されたのだが、優秀な官僚機構による調整のもとで、投資・生産・貿易・消費の拡大が全てであった。巨大な大都市や工場地帯を国内の中心に建設することで高い付加価値が生まれる空間を作り、国民全体の経済的パイが拡大すれば、地方社会の末端にまで、やがては恩恵があまねく行き渡って「発展」すると思われた。
こうした試みは、インドのガンジーが批判した「小さなイギリス」を世界各地に作る試みとも言える。実際には独裁体制が民衆を抑圧し、汚職や不効率から途上国内部の格差が拡大した(その僅かな成功例がアジアNIESである)。また、債務超過に陥る国家も現れたりしたことによって、初期の開発政策の方向性は大きく修正される。
一九六〇年代末期のピアソン報告以後、開発の目標は社会全体の「豊かさ」すなわち富の拡大ではなく、餓死で死んでいく人が生まれない「貧困削減」、および現地の実情に合った生活を維持することで「個人の尊厳を維持することができる生活の質の向上」、そして「社会参加」を重視する方向へと転換された。NGOはさらに、「民衆参加型の「社会開発」や「社会開発を進める前提条件としての人権優先」の必要性も唱えて久しい。ブータンで唱えられた人間幸福指数も記憶に新しい。
こうした開発学の方向転換に従って、「近代化」の定義も単なる「豊かさ」から転換しつつある。かつての近代化論は、ケネディー政権の時代に公式にアメリカの援助政策の中心であった。共産主義の包括的なイデオロギー性に対抗して、物理的な面での包括的な社会変化を概念化して、「近代化」は資本主義化のみならず、社会的分業の深化、合理化などの意味で用いられる傾向があった。
しかし、一九七〇年代以後、開発の目標として「個人」の尊厳や一人ひとりの貧困撲滅が課題になるに応じて、近代化の定義も変化した。今日においては人間の尊厳を支える要素としての社会的選択肢の拡大と、民衆の政治参加が重視される、新しいバージョンの「近代化論」が唱えられるに至っている(注)。
確かに、「豊かさ」と発展がなければ、民衆個人の「人権」や「女性の尊厳」に代表される「自己表現価値」が優勢となることはなく、人は日々の生活に追われたであろう。社会全体の「豊かさ」が、個の「人権」や尊厳価値と不可分だと示したのが開発学変容の意味であろう。
こうした開発学の動向を受けて、今こそ戦後の日本国民に共有されてきた「豊かさ」の定義を変えるべき時期に我々はいる。最高裁判決で、戦災被害に国民は「忍従の義務」があるとされてきたことは以前に述べた。それは戦後の復興と経済発展へのが価値として社会的に共有されてきた証である。しかし、ふと気づくと豊かさの影に隠れた問題が、公害、ハンセン病、女性の地位など、今日、大いなる脚光を浴びている。発想を転換し、「個人の尊厳や選択肢が十分にある社会こそが豊かである」とは言えないであろうか。発想(+感情)の意識的な転換があってはじめて、異なる記憶を有する隣人にも、記憶を支える価値を意識した対話が可能となるであろう。国民感情もまた、記憶と価値の産物であるからだ。
(注)開発史の動向については以下。佐々木豊「開発援助における「近代化」と「開発」をめぐる言説の変遷」京都外国語大学国際言語平和研究所『研究論叢』(95)二〇二〇。
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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