はじめに
早稲田大学の国際和解研究プロジェクトの一員として、ドイツ・イエナでの和解に関するワークショップと、イタリア・アッシジで開催された国際和解学会(IARS)に参加する機会を得ました。この経験は、「教育は和解に如何に貢献できるのか」という問いに向き合い、深く考える貴重な時間となりました。特に「アイデンティティと和解の関係」に関心を持ち、ヨーロッパにおける「ヨーロッパ・アイデンティティ」の形成を目的とした教育を通じた平和と和解への取り組みについて調査を行い、その成果の一部を学会で発表しました。

写真:ドイツ・ワイマールの歴史を学ぶプロジェクトメンバーたち
研究発表:ヨーロッパにおける教育とアイデンティティ形成
EUの創設者であるロベール・シューマンやジャン・モネは、ヨーロッパが二度の世界大戦を経験した背景には、民族を唯一の基準として国家アイデンティティが定義されていたことがあると考えていました。また、哲学者バートランド・ラッセルも、戦間期の西洋の教育は国家への忠誠を植え付けるために、歪められた歴史や政治を教えていたと批判し、人類としての連帯を育む教育の必要性を訴えていました。
1950年代以降、欧州評議会は、人権と民主主義を基盤としたヨーロッパの共同体の構築と、戦争を経験した国々の和解を目的に、教育・芸術・文化遺産の分野で国際協力を進めてきました。EUもまた、マーストリヒト条約で教育が協力分野に位置づけられて以降、さまざまな教育の取り組みを進めています。例えば、「College of Europe」や 「European University Institute」といったヨーロッパ各国から学生、研究者、教員が集まる地域高等教育機関(Regional Higher Education Institutions)の設立、そして域内での留学を促す「エラスムス交換留学プログラム」などです。
これらの取り組みがどのようにアイデンティティの形成に影響を与えているのかを明らかにするため、エラスムス交換留学プログラムとCollege of Europeの両方を経験した26名へのインタビュー調査を行いました。分析の結果、以下の3つの特徴が見えてきました:
- 地域的な教育経験を通じて、学生はナショナル・アイデンティティとヨーロッパ・アイデンティティという多層的な自己認識を持つようになる。
- 地域的アイデンティティは、文化的または政治的な経験を通じて育まれる。
- 教育プログラムの種類によって、アイデンティティ形成のアプローチが異なる。交換留学は文化的交流によって、地域高等教育機関は共通の政治的ビジョンを通じてアイデンティティを形成する傾向がある。
こうした取り組みは、「ヨーロッパ人」としての集合的アイデンティティの醸成に大きな役割を果たしています。しかし、このようなアイデンティティの共有が「和解の実現」に直結するのかどうかは、まだ十分に検討されていません。今後の研究では、この関係性をより明確に理論化していく必要があると考えています。
ワークショップ:実践現場の視点から
学会ではアイデンティティに基づく和解をテーマにしたワークショップにも参加し、我々一人ひとりが多層的なアイデンティティを有すること、そして和解においてそのアイデンティティとどう向き合うかが非常に複雑なプロセスであることを議論しました。
多くの紛争後社会では、「ナショナル・アイデンティティ」を共有することが平和や和解の手段とされてきました。共通の歴史認識や国家的ビジョンを通して人々の団結を目指すアプローチです。しかし、そのような一元的なアイデンティティの強調は、ジェンダー、年齢、障がいといった他の重要な側面が充分に反映されない危険性もあります。和解のプロセスにおいては、社会に存在する多様なアイデンティティの複雑性に向き合うことが不可欠です。
私がこのテーマに関心を持つようになったきっかけは、国連ボランティアとしてスリランカに赴任した経験にあります。スリランカは多民族・多宗教国家であり、1983年から2009年にかけて26年にわたる内戦を経験してきました。私は青年担当官として、紛争後の若者の社会参加を促進するプロジェクトに携わっていました。現地では、「スリランカ人」という国民意識よりも、「タミル人」「シンハラ人」「ムーア人」といった民族的アイデンティティをより強く感じることがありました。
例えばシンハラ人とタミル人は居住地域が大きく異なるため、日常的に接点を持たないことも少なくありません。そうした環境の中で、プロジェクトの一環として、異なる民族・宗教的背景を持つ若者たちが協力し、地域課題の解決に取り組むワークショップを開催しました。参加者にはそれぞれの地域が抱える課題を特定の上、課題の解決を図るプロジェクトを考案してもらい、審査を経て選ばれたものには実際に資金が提供されました。異なる背景を持つ若者同士が対話を通じ相互理解を進め、「スリランカ人」としての共通アイデンティティを高めるための機会を提供することが目的でした。学会では6年前のこのプロジェクトを改めて振り返り、当時直面した課題について学術的に再検討する機会となりました。
ヨーロッパの事例は、教育による地域的アイデンティティの形成が和解に貢献しうることを示すと同時に、その関係性についてのさらなる研究の必要性も浮き彫りにしました。今後は、今回のワークショップや学会での議論を踏まえ、南アジアにおける国際高等教育の取り組みが和解にどのような影響を与えているのか、現地調査を通じてさらに研究を深めたいと考えています。
今後の研究の方向性に関して
和解には、互いの経験や語りを共有する場が欠かせません。それは包摂的な歴史理解や相互理解を促進するきっかけにもなります。ヨーロッパにおける教育を通じた和解の取り組みも、こうした考え方に基づいています。しかし、こうした試みが必ずしもポジティブな結果につながるとは限りません。適切な環境が整っていなければ、かえって対立を深めてしまうこともあります。教育の経験が和解を促すか否かは、その背景や環境に大きく左右されるのです。