ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

国境を越える物語の力 ー 国際和解映画祭の経験を通して

2025年10月

筒井菜々歩(早稲田大学教育学部社会科 地理歴史専修 4年)

日韓国交正常化から65年を迎えた今日、両国の文化交流はかつてないほどに広がりを見せています。しかし私は、日韓の文化交流が活発になる一方で、政治や歴史の問題とは大きな隔たりがあるように感じていました。そうした中で出会ったのが「ERIFF国際和解映画祭」です。この映画祭の理念は、「映画を通じて市民レベルの対話と理解を促進し、和解への歩みを進めること」にありました。東アジアの歴史や対立・葛藤を描いた映画をともに鑑賞し、語り合うこと。そして「和解」というテーマを、東アジア出身の若手クリエイターたちの自由な発想によって映像に表現し、その作品を広く届けることで、人と人との和解の可 能性を模索することが目指されています。未来を担う世代の作品を公募し、多くの人々に作品を発信することを通じて「和解文化」を築くこと――それが映画祭の使命でした。

コロナウイルスの猛威が落ち着き、大学に通い始めた頃、私は映画祭実行委員の募集を目にし、ちょうど立ち上げ期に参加することになりました。第1回映画祭の開催準備が進められていた時期であり、基盤づくりの段階から関わることができたのは大きな経験でした。和解は本当に可能なのか。ましてや歴史的な対立を抱えてきた人々が、互いの背景を背負いながら和解に向き合うことはできるのか。困難に思える「和解」ですが、言葉だけでなく、身振りや表情を介して通じ合えるものがあるのではないか、映画という映像作品だからこそ伝えられるものがあるはずだ――そんな期待が込められた映画祭でもありました。

この映画祭の特徴は二つあります。ひとつは公募を通じて東アジアの若手クリエイターを発掘し、発表の機会を提供すること。ふたつめは「共創プロジェクト」と呼ばれる取り組みで、クリエイターと学生が協働し、一つの作品を共に作り上げることです。作品をつくり、上映し、学生同士で語り合うという一連の営みそのものが、人と人をつなぎ、和解を体験す る場を創り上げるのです。

私は第1回と第2回に実行委員として参加し、上映作品の選定やパンフレットの執筆、当日の運営、さらには討論会での司会まで幅広く担当しました。討論会では、留学生を含む 学生たちから多様な意見を引き出し、一つの議論につなげることが求められました。異なる 背景を持つ意見をまとめるのは容易ではありませんでしたが、だからこそ文化的対話の場 を維持することの難しさとその大切さを実感し、自己成長につながる大きな経験を得ることができました。

(コロナの最中の国際和解映画祭2022年10月2日)

第2回で上映され、私が司会を務めた『道 白磁の人』は特に印象に残っています。映画の選定から当日の司会進行まで準備に奔走したことは今でも鮮明に思い出されます。主人公の浅川巧は、林業技師として朝鮮半島に渡り、緑化に尽力するとともに、白磁をはじめとする民藝や陶芸に魅了され、その価値を日本に伝えた人物です。浅川は、朝鮮の土には朝鮮 のマツが最も適していることを理解し、その土地に根ざした植林を実践しました。朝鮮語を学び、現地の服装に身を包み、民藝品の保全に努めた彼の姿勢は、文化を尊重し共に生きようとする態度を示していました。映画の中にある「それでも木を植える」という浅川の言葉は、大きな歴史を変えることはできなくても、目の前の土地に木を植えることはできる、という静かな決意を象徴しています。朝鮮の土と木を愛した彼は、他者のありのままの姿を尊重することで芽吹く関係があることを粘り強く信じていたのです。

一方で映画は、浅川以外の日本人を理解や共感に欠けた存在として描き、とくに浅川の母親は終始「朝鮮人なんて」と蔑みを口にします。その後の討論会では、浅川を「文化を通じた和解の象徴」として肯定する意見と、「彼は当時の日本人の中で例外的な態度をとった存在であり、差別の歴史を覆い隠しかねない」という批判がぶつかり合いました。さらに私は司会者として、「なぜ今この映画を和解映画祭で上映するのか」という問いを投げかけました。その際に皆で検討したのが、浅川の死を悼む場で悲しみに暮れ慟哭する浅川の母に、朝鮮人の老婆が「いくらでも泣いたらいい」と寄り添う場面です。互いに理解しあえなくとも、子供の死に対する母親の悲しみを共有する瞬間を通じて二人は同じ方向を向いていたよう に思えました。この経験から私たちは、国家の溝は埋まらなくとも人として同じ感情を抱いていることを肌で理解する経験が、和解を目指す原動力になるのではないかと考えるようになりました。そして映画のような物語を共有する体験は、まさにそうした感情の共有を可能にする貴重な場を生み出すのだという考えに至りました。

この経験は、私の現在の研究関心とも深くつながっています。私は現在、ゼミで日本における現代韓国文学受容の様相について研究しています。浅川の母と朝鮮人の老婆のように、 完全に理解し合えなくとも共感の瞬間が生まれることが、関係を育むきっかけとなり得るという気づきは、文学の受容においても示唆的であると考えます。戦争が終結した後も、日本人にとって韓国は、かつて植民地支配を受けた「周辺地域」として、また 1970 年当時には「独裁政権下で民主化を達成していない国」として認識されていました。植民地支配の終焉後であっても、韓国を他者として見る視線には階層的な構造が伴い、潜在的な暴力を含んでいたと考えられます。こうした状況下で日本人読者が韓国文学と出会い、異なる歴史経験や立場に触れ、感情や思考を分かち合う擬似的な経験を得ることは、文化を媒介とした「和解」と類似の機能を果たします。この観点から、私は日本における韓国現代文学の受容史を、読者の反応を手がかりに検討し、彼らがどのような「韓国像」を形成し、またその認識が韓 国側でどのように受け止められてきたのかを今後の研究で明らかにしたいと考えています。

映画祭での討論は、異なる立場の人々が意見を交わす場をいかに形成するか、その難しさと可能性を実践的に示してくれました。浅川の物語に触れることで、私は「文化や文学を通 して異なる立場の者同士が出会い、心を交わす場が生まれる」という学びを得ました。この学びを韓国文学の受容史研究に生かすことで、文学が国境や歴史的断絶を超え、対話と共感を生み出す可能性をさらに深く探求できると考えています。

(第二回映画祭実行委員会メンバー2022年10月2日)