2025 アメリカ サマーセミナー
IIRSサマー・リサーチ・プログラム2025参加記
2025年9月16日から25日まで、早稲田大学総合研究機構国際和解学研究所(IIRS)主催のサマー・リサーチ・プログラムに参加する機会を得た。プログラムはアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.および近郊のヴァージニア州アーリントンにおいて開催され、ジョージ・メイソン大学カーター平和・紛争解決スクールにおける講義、在米日本大使館における日米関係の現状についてのブリーフィング、米国ジャーマン・マーシャル基金におけるセミナー、さらにアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館、国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館、ナショナル・モールの記念碑群を巡るスタディ・ツアーを含む充実した内容であった。
本参加記では、今回の経験を三点に絞って紹介したい。
1.ジョージ・メイソン大学カーター平和・紛争解決スクール教授陣による講義
9月17日・18日の2日間にわたり、ジョージ・メイソン大学カーター・スクールにおいて、マーク・ゴーピン教授、カリーナ・コロステリナ教授、ダニエル・ロスバート教授、ジェフリー・ヘルシング教授による講義を受講した。その中で、ここではロスバート教授による講義からの学びを取り上げる。
ロスバート教授は、南アフリカ真実和解委員会の事例を用いて、和解の根底にある哲学を考察した。講義の中で、ロスバート教授は、和解とは最終成果物ではなく、過去の不正行為によって傷つけられた人びと・集団・ネイションの間の関係を道徳的に修復するための変容の過程であると定義した。
この定義は、「和解とは何か、和解が達成された状態とはどのような状態なのか」という問いに対して大きなヒントを与えてくれた。和解をいつの日か達成可能な「状態」と捉えるのではなく、変容の過程と捉えることで、アクターによる絶え間ない試行錯誤という現在進行形の「実践」それ自体が和解であると考えることが可能になる。
また、ロスバート教授が引用したネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領の発言も非常に印象的だった。マンデラ大統領は、「新たに出発したネイションとして、我々は皆、いかなる人種や言語集団に属する者であれ、他者に対して非人道的な行為を為す人類の能力に対する恥を共有している。我々全員が、このようなことが二度と起こらない南アフリカを築く決意を共有しなければならない」と呼びかけた。ロスバート教授は、マンデラ大統領の発言の核心は、人類がこれまでに生み出してきた社会システムそれ自体がどのように加害に加担してきたかを哲学的に考え直すように促す点にあった、と強調した。つまり、マンデラ大統領は、加害の責任を個人に帰すのではなく、システムに注目することによって、「加害者」と「被害者」の二分法を乗り越えようとしたわけである。
和解が過去の不正行為を乗り越えるための過程である以上、過去には加害者と被害者がいたという事実を変えることはできない。しかし、和解の当事者を二分法から捉えるのではなく、政治、経済、文化といった社会システムを共有する「我々」と捉えることができれば、加害者も被害者も傍観者も巻き込んで、過程としての和解、すなわち現在における実践に焦点を当てることができるようになる。
マンデラ大統領の発言は南アフリカというネイション内部での統合を意図していたが、当事者を「我々」と捉えるという発想には、様々な集団の境界を越える力があるのではないか、と考えさせられた。
和解が必要となる原因は「過去」にある。そして、和解というアイディアは「未来」を志向している。しかし、重要なのは、「現在」における「我々」による絶え間ない「実践」、それ自体が和解であるということであろう。ロスバート教授の講義は、今後、事例研究を進めていくにあたって重要な理論的示唆を与えてくれた。
2.カーター平和・紛争解決スクール・ピース・ウィークにおける研究発表
9月22日には、カーター平和・紛争解決スクール主催のイベントであるピース・ウィークにおいて、研究発表を行った。「How Japanese Civil Society Reacted to
Diplomatic Normalization with Divided Vietnam in 1950s & 1970s」と題し、1950年代の日本からベトナム共和国(南ベトナム)に対する戦争賠償と、1970年代の日本とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間の外交関係正常化にともなう経済援助供与という二つの事例を取り上げた。そして、これらの事例はいずれも、過去の不正行為に対する補償が、歴史的責任を議論しないまま、経済開発を優先して実施されたという点で、政府間和解の限界を共有していたと指摘した。さらに、日本の市民社会はこのような政府間和解を強く批判したものの、その矛先が日越関係ではなく日米関係に向けられたがゆえに、日越間では現在に至るまで戦争の記憶と責任を見つめ直す機会が持たれなかったと述べた。最後に、過去の不正行為が問題化されないまま二つの集団の間に埋もれているとき、その問題をそのままにして静けさを保つことと、過去を掘り起こして見つめ直すこと、どちらが和解に近づく道なのだろうか、と問題提起した。
ロスバート教授の講義を聴く以前に発表準備を進めていたこともあり、今回の発表には講義から得た学びを充分に反映できたとは言いがたい。改めて自らの問題提起を振り返ると、この問いは和解を「状態」と定義するか、「過程」と定義するかという問題に関わっている。和解を静的な「状態」と捉える場合、過去の不正行為を埋もれさせたままにして静けさを保つことも、ある意味では和解への貢献と捉えうる。しかし、和解を「過程」と捉える場合には、過去の不正行為を現在の「我々」が問題として認識し、道徳的関係の瑕疵を修復するために試行錯誤する「実践」が必要不可欠になる。
講義と研究発表を通して、今後の研究においては単に過去における政府間和解の限界を指摘するに留まらず、日本とベトナムの人びとの間で過去の不正行為に対して「現在どのような認識・実践があるのか」を考える必要がある、との学びを得ることができた。
3.戦争記念碑を巡ったスタディ・ツアー
最後に、戦争記念碑を巡った感想を述べたい。
朝鮮戦争記念碑および第二次世界大戦記念碑で最も印象深かったのは、これらの戦争が「自由のための戦い」であったという大義が強調されていた点である。朝鮮戦争記念碑最奥の壁に刻まれた「FREEDOM IS NOT FREE」という文言はその象徴といえるだろう。
ベトナム地域研究者として、「自由」という言葉から真っ先に思い浮かべるのは、「独立と自由ほど尊いものはない」というホー・チ・ミン(ベトナム民主共和国初代国家主席)の言葉である。これは、1966年に「抗米救国戦争」を戦う人民を鼓舞するために発表された檄文の一節であり、ベトナム語学習者が否定表現を学ぶ際に必ず触れるフレーズである(と思う)。また、1945年9月2日にホー・チ・ミンが読み上げた独立宣言もまた、アメリカ独立宣言およびフランス人権宣言を引用し、全ての人がみな生存権、自由権、幸福追求権を有すると述べている。さらに、2025年現在においても、ベトナム社会主義共和国の公文書には、常に「独立・自由・幸福」の3語が掲げられている。つまり、「自由の国」アメリカにとってだけでなく、ベトナムにとっても、「自由」は譲れない価値の一つである。
このような背景を踏まえると、ベトナム戦争は、ベトナムにおける内戦でもあったし、冷戦構造の中の局地的な熱戦でもあったし、また「自由」という価値をめぐる戦いでもあった、とみることもできるだろう。アメリカ側は共産主義のドミノから「自由世界」を守るため、ベトナム民主共和国側は大国から干渉されない民族自決権という「自由」を獲得するために戦った。
――そのようなことを考えながらベトナム戦争記念碑に向かってみると、予想に反して朝鮮戦争記念碑との違いを強く感じることになった。朝鮮戦争記念碑には、死者数、行方不明者数などの数字や、前述の「FREEDOM IS NOT FREE」という文言が刻まれていたが、ベトナム戦争記念碑は、ただただ、黒い壁に膨大な数の個人名のみが刻まれていたのである。
その記憶の表象からは、ベトナム戦争記念碑は、国家のための貢献を顕彰しているというよりも、個別の犠牲や喪失を強調している、という印象を受けた。そこには、第二次世界大戦や朝鮮戦争とは異なり、ベトナム戦争がアメリカ社会にとって成果を誇ることのできない苦い記憶であることが反映されているのかもしれない。
その後、同じ敷地内の土産物屋で見つけたキーホルダーからも、同様の印象を受けることになった。朝鮮戦争のキーホルダーは、南北二つの国旗を色鮮やかに描いて朝鮮半島の分断を強調し、38度線以南の「自由」を守ったというアメリカの成果を目立たせている。一方で、ベトナム戦争のキーホルダーでは、ベトナムの地図は背景に過ぎない。アメリカ兵の軍靴、そこに挿された一輪のバラの花、そして傍らに置かれたアメリカ国旗だけが彩色されている。ベトナムという舞台を背景に、アメリカ人の犠牲と喪失の悲しみを前面に出したデザインになっているのである。
アメリカから見たベトナム戦争のイメージが犠牲や喪失にあるという印象は、ある偶然の発見によっても強められた。ある日、ジョージ・メイソン大学カーター平和・紛争解決スクールの近くを散歩していると、小さな公園にひっそりと立つ石碑に目が止まった。「Arlington casualties incurred by United States military personnel in connection with the conflict in」と刻まれた下に、「KOREA」と「VIETNAM」それぞれにおける犠牲者の名前が数十人ずつ刻まれている。このような地域コミュニティによるささやかな記念碑からは、国家による大規模な記念碑が持つような、ナショナリズムに訴えかける機能は感じられなかった。個別の犠牲を悼み、記憶に留めておくための装置としての記念碑の在り方であると感じた。
戦争記念碑巡りは、アメリカにとってのベトナム戦争とその記憶のされ方について考える契機となった。アメリカの記念碑が個別の犠牲や喪失に焦点を当てていると感じるにつけ、ベトナムにおける英雄烈士(戦死者)の顕彰との比較が頭に浮かんだ。両者にとっての戦争の位置付けが異なるため単純な比較はできないものの、ベトナムにおける英雄烈士顕彰が、個人の犠牲を神聖な物語として国家の集合的記憶に回収することにより、ナショナリズムの高揚やベトナム共産党の正統性の根拠として利用されているという側面は否定できない。
以上のようにアメリカとベトナムにおける戦争の記憶のされ方を比較することはまた、そのどちらの記憶にも組み込まれない存在を浮かび上がらせる。米軍と共に戦ったベトナム共和国(南ベトナム)軍の兵士たちは、アメリカにおいてもベトナムにおいても、公的な追悼の対象には含まれていない。1975年のベトナム戦争終結から、2025年で50年が経過した。国家によって「記憶されるべき記憶」として選び取られることのない彼らの記憶は、今はまだそれぞれの家族の中に維持されているだろう。このような公的に語られない記憶は、今後どのように継承されるのか、あるいはされないのか。ベトナムの歴史に関心を持つ者として、向き合うべき問いの重要性を改めて認識する機会となった。
以上、IIRSサマー・リサーチ・プログラム2025において得た学びを、講義、研究発表、スタディ・ツアーの三点から振り返った。和解、自由、そして戦争記憶について思索を深める機会を与えてくださったすべての関係者に、心から御礼申し上げたい。