ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2025ソウル 国際和解学会

IARSカンファレンス

常石 憲彦

多摩美術大学 非常勤講師

ソウル2025国際和解研究協会(IARSソウル2025)への参加は、和解を構成する要素について、あるいは和解とは何かを根本的に考え、時にその概念に疑問を呈することの重要性を再確認する機会となった。

7月14日のパネル「ポストコロニアルな遺産と和解」で、わたしは現在進行中の研究を発表した。「ユーモア的志向:障害、遭遇、未完をめぐるトランステクスチュアルな読み」と題された本発表は、2025年2月に早稲田大学国際和解学センター哲学・心理学班が主催したワークショップでの発表以来、わたしが関心を深めてきた、笑い、ユーモア、そして多様な障害が織り成す接点に関する探求であった。

IARSソウル2025での発表では、この興味をさらに掘り下げるべく、トランステクスチュアルな読みを以下3つの作品に試みた。日本の作家上野英信による短編小説『あひるのうた』(1954)、韓国人作家ハン・ガンによる小説『ギリシャ語の時間』(2011)、そしてフランス人哲学者フランソワ・マトゥロンによる闘病記的テキスト『もはや書けなかった男』(2018)である。三作品とも、障害を持つ人物たちを主人公としている。本発表では、これらの障害が単にキャラクター自身の身体的な苦闘だけでなく、広範なポストコロニアルの難局的状況を映し出していると読んだ。主人公たちは身体的、物質的、歴史的条件に深く巻き込まれているが、其々の作者は、その身動きすら取れないような状況を、極めて微小なれども、ズラしていく戦略を実践している。この戦略は、他者との予期せぬ出会いを演出しつつ、脱出不可能な状況をそれでも乗り越えようとする共同的な意志を形成していく。わたしは、このような語りの身振りを——笑いが在るか否か関わらず——「ユーモア的志向」と特徴付けた。不可避な身体的・物質的な束縛の真っただ中で、思考と主体性を変革させようとする集団的衝動といえる。わたしが試みたトランステクスチュアルな読みは、このようなユーモア的志向こそが、もし仮に和解が可能であるならば、その和解への道を開くための触媒となると論じた。

質疑応答とその後の若手研究者との議論を通じて、貴重なフィードバックを得ることができた。例えば、何故私が上記3本のテキストを選択したか、笑いとユーモアが社会文化的文脈によってどのように異なるか、そしてその違いが文化間や二国間の和解枠組みにおいてどのように考慮されるべきかについて質問を受けた。もう一つの重要な批判は、フランツ・ファノンの定義に基づいたわたしの「植民地主義」の用法に関するものであった。その指摘から、わたしの用法は植民地主義を単なる「比喩」として用い、その言葉の持つ歴史的・政治的な特異性を矮小化してしまう可能性に気づかされた。同様の批判は、「障害」という用語の使用にも適用されうるだろう。本研究をさらに発展させる中で、これらの批判と向き合い、使用する用語が適切な歴史性、政治性、文化性そして身体性を有するよう努めていく。

同パネルの他の発表者であったDongyoun Hwang教授(創価大学アメリカ校)と熊谷奈緒子教授(青山学院大学)から多くのことを学ぶことができた。テーマやアプローチは異なるが、両教授とも其々の発表でポストコロニアルなあるいは国家間の未解決な緊張を問題化した。この点について、特にHwang教授が質疑応答で述べたコメントが印象に残っている。同教授は、支配的な政治経済形態として国家が存続する限り、和解への試みは徒労に終わる可能性があるとご指摘された。代わりに追求すべきは、「国際性(internationality)」ではなく「超国家性(transnationality)」であると言明された。なぜなら、前者は依然として国家の存在を前提とする姿勢だからである。たとえこれが不可能な試みであるとしても、この試みを無力化しようとする様々な権力に対し『しつこく物申す』べきである、とも主張された。両教授の発表は、この——支配的な前提事項や現状に挑戦する——「しつこく物申す」精神を示しており、その様な姿勢の中に、わたし自身が理論化しようとしている「ユーモア的志向」を見出すことができた。このような充実した議論へと導いて下さったパネルチェアのJahyun Chun教授(延世大学)にも感謝したい。

IARSソウル2025では他のパネルセッションを傍聴できたことも、極めて有益な経験となった。これらのセッションでは様々な問題やアプローチが紹介され、貴重な識見を得ることが出来た。例えば、あるパネルでは「身体」——死んだ身体、名もなき身体、行方不明の身体、または植民地化された身体など——を、過去の出来事が現在に対して、継続的に、あるいは憑依的に与える影響を見るレンズとして理論化されていた。特にこれらの議論に興味を持ったのは、身体というテーマがわたし自身の研究の核心となる可能性があるからである。実際、学会開催中には眞田航さん(早稲田大学)と「身体」に関する意見交換をした。その中で、眞田さんはわたしの発表で取り上げた『ギリシャ語の時間』に関する独自の解釈を親切にも共有して下さり、また身体を主題にしたIARS共同パネルの構想に着手することができた。同様のテーマに取り組む他の研究者を招待することも念頭にいれている。この共同企画を通して多くのことを学ばせていただきたい。特に、眞田さんの哲学的アプローチ——偶然性、非コミュニケーション的な言語行為、そしてラディカルな脆弱性を通じて、閉鎖的な共同体や既定の主体性への批判——は私のプロジェクトの展開に貴重な指針をもたらくれるであろう。

7月18には、学会プログラムの一環として非武装地帯(DMZ)への見学ツアーに参加した。韓国側から見た国境が観光地のような印象を受けたことには複雑な気持もあったが、この見学ツアーは必要不可欠なものであったと感じた。対岸の北朝鮮へと架かる橋が一つもない臨津江を望む景色は、不気味さを放っていたからである。橋のない川が原始的な風景を連想させる一方で、人工的な構造物の欠如自体が、両国の分断が継続していることを物語っていた。

帰国後もこの景色は私の脳裏から離れず、改めて「分断に橋を架ける」と題されたIARSソウル2025が、いかに思慮深く、かつ感情的で切実なものであったかを再認識した。依然として韓国と北朝鮮は分断されているが、学会自体が、参加者である我々の多くにとって、アイデアを共有し、偶然の出会いを経験し、関係を築き、美味しい昼食を楽しみながらカジュアルな会話を交わすことができる「架け橋」となったことに感謝している。

最後に、早稲田大学国際和解学プロジェクトを率いる浅野豊美教授に感謝の意を表したい。特に、ソウル出張へ向けての準備および学会参加を円滑に進めるため、知的なそして事務面でもご尽力していただいた小野坂元次席研究員と川口博子次席研究員には深く感謝している。また、ソウル国立大学で学会の運営の携われた方々、特に全てがスムーズに進むよう寝る間も惜しんで献身された学会事務局のMinjeong Leeさんにも、お礼を申し上げたい。このような運営者たちのご尽力の上で、わたしたち発表者は繋がり、歩み始めることができたと信じている、まだ見ぬ橋へ向かって。