ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

海外出張/滞在報告

南アフリカおよびナミビア出張報告

重松 尚

東京大学・日本学術振興会 特別研究員CPD

 2025年10月後半から11月初めにかけて、南アフリカ共和国およびナミビアに出張した。今回の出張では、第1に、ヨハネスブルグ・ホロコースト&ジェノサイド・センターにて開催された国際ジェノサイド研究学会(IAGS)隔年大会において口頭発表を行った。第2に、ホロコーストと南西アフリカにおけるジェノサイドの歴史記憶の比較研究に関する調査を行った。そして第3に、アパルトヘイトおよび南西アフリカ植民地支配におけるリトアニア・ユダヤ人の役割に関する歴史記憶の研究に関する調査を行った。

 IAGS大会では、「Diaspora Nationalism and Collective Memory on Genocide: Exhibitions by American Lithuanians and Their Aftermath in the Homeland」と題する口頭発表を行った。1940年から1941年、そして1944年から1990/91年にかけてソ連占領を経験したリトアニアでは、ソ連期、特にスターリン体制期のソ連当局による抑圧政策はしばしばリトアニア民族に対する「ジェノサイド」と表現される。しかし、これらの政策はジェノサイド条約の定めるジェノサイドの定義に完全には合致しない。これを「ジェノサイド」とみなす認識は1980年代後半、独立運動と並行してリトアニア国内で勢いを増すことになるが、歴史を遡れば、第二次世界大戦終結後から既に、特に米国におけるリトアニア人ディアスポラ・コミュニティでは広く浸透していた。今回の発表では、特に1950年代から70年代における在米リトアニア人コミュニティにおける「ジェノサイド」認識に焦点を当てた。特に、1950年代から1970年代にかけて、在米リトアニア人たちが、ニクソン大統領やフォード下院議員(当時)ら政治家の協力を得て、全米各都市で開催した「ジェノサイド展」を主題として取り上げた。これらの展示会はソ連による人権侵害を強調するものであり、ニクソン政権がヴェトナム戦争への米国関与を正当化する材料としても利用された。分析にあたっては、リトアニア・ヴィルニュスにあるリトアニア国家中央公文書館(LCVA)および米国イリノイ州レモントにあるリトアニア研究センター世界リトアニア人アーカイヴ(LTC-PLA)の所蔵する文書資料を用いた。和解学との関連について言えば、記憶の政治、国際法と経験的認識の齟齬、ディアスポラの影響、外部政治アクターの介入といった要素が、歴史対話や移行期正義を通じた社会的和解の達成にいかに作用するかを示す具体例となる。

 発表後、いくつかの質問を受けたものの、発表の骨子を理解した生産的な質問を得ることは残念ながらできなかった。私が割り当てられたパネルはかなり異なるテーマの発表3つによって構成されていたため、司会も聴衆もやや混乱していたように見受けられた。また、この発表では、ジェノサイド概念の生みの親である法学者ラファエル・レムキンとの関わりにも言及したのであるが、この点でジェノサイド研究者の関心を惹くであろうと期待していただけに、これに関する質問がなかったのは非常に残念であった。おそらく、事前に提出していた発表要旨からはレムキンとの関わりが見えなかったために、本来なら関心をもっていたであろう研究者が別のパネルに参加したのではないかと推測される。これは大いに反省する点である。今後、今回の発表内容を英語論文としてまとめ、国際学術誌に投稿する予定であるが、もし期待どおりに学術誌に掲載されることができれば、その後多くの反応があることを期待したい。

 大会終了後は、先述のとおり2つのテーマで調査を行った。まずは、ホロコーストと南西アフリカにおけるジェノサイドの歴史記憶の比較研究である。近年のホロコースト研究では、ドイツによる東欧の「植民地支配」という観点からの再検討が進められている。従来の植民地研究は、ヨーロッパによる第三世界支配や白人による非白人支配を前提としており、ホロコーストのようなヨーロッパ内部の事例に植民地主義の概念を適用することはほとんどなかった。しかし、近年ではドイツによる東欧支配とホロコーストを植民地主義の観点から捉え直すことで、ドイツ当局によるユダヤ人および現地社会への政策や、現地住民の協力メカニズムに新たな視座が提示されつつある。ここで重要な先駆的事例として位置づけられるのが、ドイツによる南西アフリカ(現ナミビア)植民地支配と、ヘレロおよびナマに対するジェノサイド(1904〜1908年)である。20世紀初頭の南西アフリカでの抑圧的政策が、第二次世界大戦中の東欧にも持ち込まれたことを踏まえると、両者の比較は不可欠である。歴史記憶の面では、第二次世界大戦後、ドイツ政府がホロコーストについては贖罪を重ねる一方、南西アフリカでのジェノサイドについては2021年まで公式にその責任を認めなかったため、加害者と犠牲者の記憶の齟齬は両事例で大きく異なっている。国家責任と和解の可能性を検討するうえで、同一国家による異なる事例の比較研究は重要であり、本出張でこれを実施した。

 ナミビアにてまざまざと実感させられたのは、犠牲者の記憶の周縁化という現実である。かつて南西アフリカの主要民族の一つであったヘレロおよびナマは、その大半がジェノサイドによって殺害されたこともあり、現在のナミビアではマイノリティの一つとなっている。そのため、ヘレロやナマの記憶はナミビア全体の記憶のなかで周縁的なものとして扱われている。また、ドイツ系を中心とするごく一部の白人が国内の富の多くを占めているという現状において、ナミビア政府がドイツ系白人の影響下にあり、したがってジェノサイドの犠牲者に対する補償なども進展しないという現状を嘆く声も、当事者らに聞き取りを行うなかで多く聞かれた。特に、ジェノサイド博物館の置かれている大西洋沿いのリゾート地・スワコプムントにおいては、街の中心部が地元の白人やドイツからの観光客で溢れているのに対して、数万人の黒人たちが郊外の居住地に追いやられている現状を目にすることとなり、富の偏在をまざまざと見せつけられる思いをした。ホロコーストの場合とは異なり、現地に住む民族的ドイツ人の存在という要因が事態をさらに複雑にさせていることが理解できた。今回はナミビア国立図書館および国立文書館も訪問したものの、実際に1次史料を調査・収集することまでは行わなかった。しかし、2次資料は多く収集することができたので、今後はこれを足がかりとして、さらに研究を進展させたい。

 今回の出張ではさらに、私がこれまで研究してきたリトアニアにおけるホロコーストの歴史と記憶に関連して、南部アフリカにおけるリトアニア・ユダヤ人の歴史記憶についても調査した。19世紀後半から1930年代にかけてリトアニア・ユダヤ人の国外移住は増加したが、特に1924年に米国が移民数を制限して以降は南アフリカがその主要な移住先の一つとなった。現在、南アフリカの白人社会におけるユダヤ人の大半はリトアニア系である。本国リトアニアのユダヤ人社会がホロコーストでほぼ壊滅した現在、南アフリカはリトアニア系ユダヤ人社会が現存する数少ない地域となっている。リトアニアではマイノリティであったユダヤ人は、南アフリカでは特権階級としての白人地位を得て、第二次世界大戦後のアパルトヘイトや南西アフリカ植民地支配において支配層の一角を占めるに至った。他方で、特にアフリカーナーなどのあいだには反ユダヤ主義も多く見られたため、「マジョリティ内部のマイノリティ」という複雑なポジションに置かれることとなる。このような状況から、南アフリカのユダヤ人の植民地主義およびアパルトヘイトに対する対応はさまざまであった。一部は白人社会に順応し、黒人に対するアパルトヘイトや南西アフリカに対する植民地支配にも積極的に関与した一方で、例えば社会主義にシンパシーを抱く労働者階級のユダヤ人などの場合は、黒人労働者と連帯してアパルトヘイト体制に抵抗しようする者も多くいた。その際、リトアニアにおけるホロコーストで親族を失うという「犠牲の記憶」も重要な役割を果たした。今回、南アフリカのリトアニア・ユダヤ人の歴史に関する資料を多く所蔵する図書館などで予備調査を実施することができた。このテーマについては今後、別個の研究プロジェクトとしてさらに発展させる所存である。

写真1:ヨハネスブルグ中心部ベリア地区の廃墟ビル——内部はギャングや犯罪者が占拠しており、こ
こを寝床にするホームレスの人々はそのギャングらに毎月支払いをしなければならないという

写真2
憲法裁判所(ヨハネスブルグ)

写真3
ケープタウン中心部ボ=カープ地区——歴史的にマレー系住民が多く住み、人権侵害に苦しむ
パレスチナの人々との連帯を訴える壁画が数多く見られる
写真4
ドイツ支配に対して現地住民が起こした蜂起で殉死したドイツ兵のための記念碑——問題含み
のこの記念碑には、現地の人の「ドイツくたばれ」「地獄に堕ちろ」といった抗議の声が書か
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