到着して
イェナ和解学センター(JCRS)で新たな研究に着手するために、東京の自宅を明け渡しました。博論を基にした単著を出せたことを区切りに、思い切って持ち物を処分しました。10月にイェナに着いたときは、サマータイムの時期で、時差は7時間で、東京で昼夜逆転した生活をしていたところ、イェナでは午前中に起きるなど、生活改善の兆しです。スーパーマーケットに行けば、野菜、ソーセージ、パスタ、ソースが手に入り、ゲストハウスの電子調理器で焼いたり、煮たりできますから、ファストフードばかりの(ガスも契約していなかった)東京滞在とは異なり、「生活」をしている感じがします。とはいえ、日本でのイヤな思い出とともに、それらは消え去ったと思いきや、捨てると思い出すということも知りました(拙著に書いたことは忘れるので、書評会で焦ります)。
そういえば、「あることを忘れよう」と意識すると、対象を指さしてしまえば、いつまでも記憶してしまうということがあります。慌ただしい渡航準備や、現地で滞在のための手続きを通じて、こういう心理的な問題について興味を持つようになりました。振り返ってみると、イヤな思い出ばかりで、何かへの怒りを引き起こすのですが、やがてその問題について考えるなかで自分の無能さを知り、切歯扼腕して研究をしてきました。そんなことが原動力の研究がいつまで持つのだろうかと、”I upset myself about it.”で、進歩がありません。
第一次世界大戦戦没者の碑のきっかけ
そんなことを、ゲストハウスあるForstweg通りを散歩し、第一次世界大戦戦没者の碑がラッカーペインティング塗れになっている様子を眺めつつ、1918年からのドイツ史を重ね合わせていました。落書きの一つには、男性器らしき絵があります。ヴァイマル期の女性参政権の導入は、戦争で多くの男性が兵士として亡くなった直後のタイミングです。法的には女性の権利が高まったのに、それゆえか、有権者の性別の比率で女性のほうが多いという状況に、保守的な男性が不満を溜めていったことも理由の一つで、反フェミニズムが根強かったという史実があります。それと、あの男性器は何か関係があるのだろうか、などと考え込んでしまいます。
とりあえず、11月に入り、1918年ドイツ11月革命の勉強でもするかと思い立ち、関連本の電子書籍と音声を買いました。ロベルト・ゲルヴァルト『史上最大の革命』です。音声に遅れないように、接続詞や比較級をマーキングするのです。その必死のクリックでわかったことは、古典的な研究ではヴァイマル共和国の民主政治は、ナチ政権到来の前史という位置づけが強かったが、近年の研究では社会民主党のプラグマティックな政治指導が再評価されているということでした。同時代的には、右派のナショナリズムと左派の革命路線の双方から、社会民主党が攻撃され、ヴァイマル期の経済や外交上の困難は、社会民主党の無能ぶりに結びつけて語られました。それが歴史学にも反映されていたという格好です。このことは、文献史料に基づく歴史学の落とし穴だと簡単に思われがちですが、史料に同化してしまうほどのイレコミ具合は軽視できないのではないかを考えています。いわゆる「1968年世代」のドイツ共産党史研究など、現在の定説とは異なるででしょうが、再訪の価値は失っていません。
むろん、同時代的な語り口や政治的な立ち位置からくる関心を含んだ研究史を経て、ヴァイマル期の社会民主党の政治指導に対する正当な評価が歴史学によってなされたことは重要です。しかし、だとすると、ヴァイマル共和国は単なるナチ政権前史ではなく先進的な安定した政治体制を持っていた。それにもかかわらず、ヴァイマル共和国の民主制と国際協調は崩壊した、という誰もが知る事実に突き当たります。この地点からナチ政権成立史を考える場合、日本史研究で、1920年代と1930年代とを一貫して理解するための視点が追求された研究史(1980年代末から2000年代初の業績)を思い出してしまいます。それらの蔵書を処分してしまったのを後悔していますが、思い出したからよいだろうと思っています。という気分で、リチャード・エヴァンズの『第三帝国』シリーズは読破できるのではないかと思って読み始めました。現在までに読んだのは、1933年5月のベルリン性科学研究所に対する弾圧の時点です。トランスジェンダーに関する先駆的な研究成果も、この事件で失われました。現代のわたしたちも現実味を持って読めるこの本の意義や、現実に起きたことの凄まじさを感じます。というのも、現在のトランスジェンダー差別は、この歴史をなぞるものでしかないからです。「焚書」というのは語源の中国の故事でなければ、ナチ政権期の蔵書破壊のことを指すのです。まして、差別的な内容の本が発売中止になることと「焚書」は異なります。「焚書」という重い言葉を誤用したトランスジェンダーに対する差別的記事に、日本で数年前に接して驚いたものです。
JCRSのトランスディシプリナリー環境
ナチ・ドイツ史の勉強に関連してトランスジェンダー差別の歴史および現在を語ってしまいましたが、この記事で述べたいのは、トランスジェンダーを差別する連中のことではありません。JCRSで勉強するなかで接した、トランスディシプリナリーな研究の重要性についてです。
とくに、「ポスドク」といういったん何かの学問分野の主題や方法を獲得に努め、(わたしの場合は運よく)博士号を取得した人間が、次のステップにいくために、それまでの知識や能力を超えて、トランスディシプリナリーな研究に取り組むということが大事なのではないかと考えています。まだ滞在2ヶ月ほどですが、Laura Villanueva先生の和解学講座での和解学研究史、さらにコロンビア内戦後の和解の事例、JCRSの皆さんが集まった場合は、バチカンの人権問題への取り組み、イェナの和解学週間では、心理学、デジタル技術、ドイツ拠点でのイスラエル・パレスチナ対話の意義、など多様な研究に接します。とりわけ、被害者の心理に接近しようとする心理学と歴史学の政治過程分析との観点の差異が印象に残りました。紛争と和解の現実が複雑である以上、万能の学問分野はありません。ひょっとすると万能の、「トランスディシプリナリー方式」もないはずです。
こうした研究環境で自分の研究をどのように紹介するのか、その後に活発な議論へ持っていけるのかと真面目に考えた場合、博士課程の惰性での取り組みは不可能です。自宅を処分する勢いで、古い自分を変える取り組みが必要です。あたかも旧約の律法を新約の福音に置き換えようと、十字架を求めていく覚悟でやっていければと思っています。JCRS所長のMartin Leiner教授がドイツ・スイスの神学者カール・バルトの専門家であると知れば、わたしはバルト『ローマ書講解』を読んで和解学に興味を持った、ということだけではありません。JCRSのトランスディシプリナリーな研究をまとめてこられた実績に基づくLeiner教授の発表を聞き、博論以後について考えるきっかけを与えられたように思います。Leiner教授、Villanueva先生をお招きした2024年2月8日の早稲田でのワークショップで、トマス・ミュンツァーの名を聞きました。彼ゆかりの地、そしてドイツ農民戦争の歴史を持つチューリンゲン州にイェナがあるわけです。それ以来のLeiner教授、Villanueva先生のサポートにより、JCRSで研究が進めていけることに感謝申し上げます。
この滞在期は、3ヶ月に一回とうかがっております。次回以降、下記のトピックを取り上げる予定です。
心理学と歴史学、民族、階級、ジェンダー、グローバル労働史
以上