はじめに
2024年8月、ドイツでのサマースクールに参加した。8月17日から22日まではイエナでレクチャーや研究発表があり、8月22日からは主にベルリンでフィールドスタディがおこなわれた。本サマースクールでは、Friedrich-Schiller-Universität JenaのMartin Leiner教授、Laura Villanueva教授をはじめとして、さまざまな分野で和解学に携わっておられる先生方や若手研究者と交流をもつことができ、非常に大きな刺激をもらうことができた。
本報告書では、主に、イエナでおこなった私の研究発表とそれへの反応、そしてベルリンでのフィールドスタディを通して考えたことを記したい。

ヘーゲルの像
イエナ:セミナーと研究発表
イエナでは主に、Leiner先生およびVillanueva先生による和解学に関するレクチャー、領域横断的な和解学の観点を学ぶためのエクササイズ(グループワーク)、若手研究者たちによる研究発表が行われた。以下では、このうち、私の研究発表に焦点をあてて記したい。
私は、若手研究者の一人として、“Modern Japanese Philosophy and Colonialism: Rethinking Nishida Kitarō’s Philosophy of the Other”というタイトルで研究発表をおこなった。この発表は、私の専門分野である近代日本哲学を、ポストコロニアリズム研究の観点を踏まえながら再解釈し、それによって和解学に対して理論的貢献をなすことを目指したものであった。ごく簡単に内容を要約しよう。
発表内容の要約
まず、私の研究対象である西田幾多郎(1870-1945)は、近年、国際的な関心を集めており、そのなかで「多文化主義」を哲学的に基礎づける哲学として評価されつつある、という現状がある。そこでは、西田が提示した、あらゆる特殊をそのうちに包摂する「絶対無の場所」という概念が、あらゆる特殊な文化が、互いに差別し合ったり、支配し合ったりすることなく、調和的に包摂されている理想的な世界を哲学的に示したものであると評価されているように見える。
しかし、そのように評価される一方で、西田は植民地主義を正当化する言説を残してもいる。戦時中の西田は、絶対的な普遍性という位置を「日本民族」や「皇室」と結びつけることによって、他のアジア諸国・諸民族を包摂する、すなわち支配することを正当化しているのである。
ここにおいて私は、私たち全員が同じ普遍性を共有しているという前提そのものを疑うべきではないか、と考えた。絶対的な普遍性を提示し、それを旗印に多文化主義を称揚することはたしかに美しく見えるが、しかしそのとき、絶対的な普遍性(と一見すれば見えるもの)が、ある特定の属性をもつ人々に結びついてしまう可能性がなかったことにされてしまう。つまり、検討するべきなのは、その普遍性それ自体がつねに偏りをもってしまうということなのだ。本研究発表では、酒井直樹やWilliam Haverなどを参照しながら、「人間」と呼ばれる普遍性が、実のところ、歴史的に、特定の人々を差別・排除することで構成されてきたことを指摘し、上記のような普遍主義に疑義を呈した。
その上で私は、西田のいわゆる中期哲学における他者論に、いかなる普遍性をも前提としない、他者との関係が描かれていることを指摘し、その可能性を指摘した。中期西田は、自分の感情を他者に投影したり、逆に他者を自分に投影したりする対人関係の様式――類推や感情移入(あるいは共感)――ではなく、何が起こるかまったく予測のつかない他者との偶然的な邂逅を重視している。ここに私は、マジョリティがみずからの普遍性を基準とし、それを他者としてのマイノリティにおしつけるというモデル――そのときマイノリティの声は、マジョリティによって承認されるもののみ、存在することになる――ではなく、みずからの快適さを手放し、他者との偶然的な邂逅に開かれる可能性を見出した。そして、他者との和解を考える上で重要なのは、みずからがその位置を占める普遍性を失効させ、そのような偶然的な邂逅に開かれることなのではないか、と本発表を結論づけた。
発表へのコメントと応答
以上の発表に対して、いくつもの有益な質問・コメントをいただくことができた。以下では、そのうちのいくつかを紹介したい。
まず、Leiner先生とVillanueva先生から、上述の研究を具体的にどのように展開しようと考えているのか、そして実際の問題に対してどのように貢献することができるのか、といった点についてコメントをいただいた。私は率直に、このまま哲学研究によって和解学に貢献するべきか、それともより実際的な研究にシフトするべきか迷っている旨を伝えた。発表後、早稲田大学の梅森直之先生や黒田一雄先生から、ぜひ哲学研究の観点を和解学にいかしてほしいという旨のコメントをいただき、今後の方針を考えるきっかけとすることができた。
また、青山学院大学の熊谷奈緒子先生から、一般的に和解の場面においては、他者への共感が重視されるのに対して、本研究の立場が共感を批判している点についてコメントをいただいた。それに対して私は、共感という言葉を用いることで、みずからの立場を他者に投影し、他者の声を都合よく歪曲してしまう恐れを感じていると答えた。
さらに、発表後に梅森先生とお話しする機会があり、そこで、西田哲学から人間中心主義的な和解ではなく、自然との和解といったより大きな主題にもアプローチできないか、という旨のコメントをいただいた。西田哲学を非‐人間中心主義的に解釈することはおそらく可能であり、そこから非人間的なアクターも含めて和解のコンセプトを書き換える可能性を引き出すことができるかもしれないと答えた。
ベルリン:博物館と植民地主義
イエナでのレクチャーや研究発表から一転して、ベルリンでは第二次世界大戦や冷戦に関連する史跡や博物館をめぐるフィールドスタディがあった。それぞれの史跡・博物館では、Leiner先生が詳細なガイドをおこなってくれたため、より多くの知見を得ることができた。また、さまざまな分野を背景にもつ先生方や若手研究者の方々とともに史跡・博物館をまわることができたため、ドイツだけではなく、リトアニアや台湾、ベトナムなどの事例と対比する視点を得ることもできた。
フィールドスタディで正式にめぐった史跡・博物館等については、おそらく他のみなさんが詳細に紹介していることだろう。そこで私は、8月24日の正式な日程が終わったあと、Leiner先生とVillanueva先生による希望者のみを対象としたガイドトリップと、Leiner先生におすすめされて行ったフンボルト・フォーラムについて紹介したい。

フンボルト・フォーラム
Leiner先生とVillanueva先生は、正式な日程が終わった希望者(川口博子先生、常石憲彦さん、陳志剛さん、私)を、マルクス・エンゲルス・フォーラムやフンボルト・フォーラムの近辺に連れて行ってくれた。ナチス・ドイツ時代に集会がおこなわれた広場や、東ドイツ時代の遺構がいまなお残っており、ベルリンという都市の歴史的な多層性を感じることができた。
その近辺をひととおりまわったあと、Leiner先生は、当日はベルリンにある博物館や美術館の多くが深夜まで営業している日であることを教えてくれた。その際、いくつかの博物館をおすすめしてくれた。
私たちはそのうちのひとつであるフンボルト・フォーラムを訪れた。フンボルト・フォーラムは、アフリカやアジアなど、主にヨーロッパ以外の美術品を所蔵する博物館である。この博物館自体が巨大なので、フンボルト・フォーラム自体の歴史をめぐる展示、アフリカについての展示、アジアについての展示をめぐることにした。
そのうちもっとも印象に残ったのは、アフリカについての展示である。そこには、ドイツをはじめとした、西洋の人類学者たちがおこなってきた植民地主義的、差別的な活動への反省が組み込まれた展示であり、非常に興味深かった。
ある展示を紹介したい。その展示では、穴のあいた黒い箱のような装置がいくつか置かれており、見学者はその箱を覗くように促される。その箱を覗くと、アフリカの諸民族の土器などの画像が映し出されている。真ん中に配置された箱以外は、そのような展示となっていた。しかし、真ん中に配置された箱だけは、そのなかに画像ではなく、暗い(黒い?)鏡が設置されている。つまり、それを覗くと、自分自身の顔が映し出される、ということである。
このしかけは非常に興味深いものであった。私の解釈では、このしかけによって目指されているのは、おそらくは次の二つのことだろう。
ひとつは、「私たち」が観察者――それは植民者であり、また、おそらくは西洋人でもある――として、アフリカのひとびとを眼差しているだけではなく、アフリカのひとびともまた「私たち」を眼差しているということ、を見学者に認識させることだろう。すなわち、アフリカのひとびとは、一方的に観察対象として対象化される存在などではなく、彼ら/彼女たち自身が主体として生きていることを、見学者に反省させる効果がある。
そしてもうひとつは、私たちが無邪気にアフリカのひとびとを観察の対象としているその眼差しそれ自体を、私たちに眼差させることだろう。この装置によって、見学者は否応なしに、アフリカのひとびとを観察対象とする見学者自身の眼差しに、直面させられることになる。つまりこの装置は、見学者がアフリカのひとびとをどのように眼差しているのか、そのことを見学者に認識させるものなのである。
以上のように、この体験型の展示は、見学者に、植民地主義的あるいは差別的な眼差しへの反省をせまるものであった。この展示から、私は、ただアカデミックな言説によって和解の可能性を提示するだけではなく、こういった体験やアートを通して和解の可能性を提示することも、和解学の実践として必要なのではないか、と考えるにいたった。
おわりに
最後に、この素晴らしいサマースクールを率いてくださった早稲田大学の浅野豊美先生、イエナのLeiner先生、Villanueva先生に深く感謝を申し上げます。また、早稲田大学の川口先生、小野坂元先生には、お忙しいなか準備に尽力してくださり、ほんとうにありがとうございました。
このサマースクールを通して、素晴らしい研究仲間と知り合い、交流することができ、ほんとうにうれしく思う。サマースクールで得た経験やネットワークは、今後の研究に必ず活かされることだろう。