ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2024 ギリシャ

サマーセミナー(ギリシャ)参加記

眞田 航

2024年9月25日

大阪大学 博士課程

はじめに

2024年8月、ドイツでのサマースクールにひきつづいて、ギリシャでのサマースクールに参加した。全行程は移動日を含めて8月25日から9月5日までであったが、報告者はそのうち8月31日までのカヴァラにおける国際サマースクールに参加した。

このサマースクールでは、おもにキプロス問題、および、その問題をめぐるギリシャとトルコの国際関係に焦点が当てられていた。とりわけ、エネルギー資源の分布など、キプロスがいかに地政学的に重要な位置にあるのかが議論の中心であった。

詳細については後で記すが、正直なところ、ギリシャでのサマースクールには非常にネガティブな印象を抱く部分もあった。本報告書では、このサマースクールに参加して感じたこと、考えたことについて率直に記すこととしたい。

カヴァラの街並み

ヨーロッパと非‐ヨーロッパ

キプロス問題は私の研究対象(近代日本哲学)からかなり距離のあるテーマであった。それゆえ、私はこれまで、ニュースなどでキプロス問題について軽く目にすることはあっても、その歴史的背景などについて積極的に調べることはなかった。はずかしながら、と同時に、よろこばしいことに、本サマースクールに参加してはじめて、キプロス問題について見識を得ることができたように思う。

また、私の専門である哲学分野では、ひとつの事例についてここまで集中的に議論することは多くはなく、より一般的な議論に終始することが多い。それゆえ、本サマースクールでの経験は、非常に新鮮なものに感じられた。ひとつの事例に深く学ぶことの重要さを感じた。

ただ、正直に言うと、本サマースクールでは、かなり落胆する経験もあった。それは、ギリシャからの参加者による発表の多くが、全体的な論調として、一方的にトルコを加害者とみなしていたことである。私見によれば少なくとも、キプロスのギリシャ系住民とトルコ系住民がいかにして和解するのかということに焦点があたってはいなかったように思われる。そういった発表では、ギリシャとキプロス共和国はEUに帰属しており(ヨーロッパであり)、トルコはEUに所属していない(ヨーロッパではない)ことに注目し、両者のあいだに明確な区別を設けていた。それゆえ、ギリシャからの発表者たちは、キプロス問題はEUの法的制度のもとで解決されるべきであり、トルコの言い分を受け付ける必要はないと考えていると、私には思われた。

このような印象は、ギリシャからの発表者の主張それ自身だけではなく、語彙の選択からも感じられた。私の記憶にとりわけ残っているのは、ギリシャからのある発表者が、キプロスをめぐる地政学的問題を、“European reality”(ヨーロッパの現実)という言葉で、何度も繰り返し指示していたことだ。この語彙の使用は、キプロス問題からトルコ――それは先述のとおり非‐ヨーロッパとみなされている――の主張を締め出すとともに、トルコをヨーロッパ外からやってくる加害者として表象することを促進しているように思われた。

見えなくなった過去の闇

ところで、私見によれば、よろこばしいことに、こういったサマースクールの全体的な論調に対して、早稲田大学やイエナ大学などから参加した先生方の発表は、疑問や異議を突きつけるものであったように思われる。そのいくつかを紹介したい。

早稲田大学の梅森直之先生は、自身の発表の締めくくりとして、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人が互いに互いから被害を受けていることを背景に、「キプロスの和解のために、何を覚えておくべきで、何を忘れるべきなのか」という問いかけをおこなっていた。私の印象では、この問いは、本サマースクールがギリシャ側からのワンサイドな論調に対して疑義を突きつけるものであり、非常に重要なものであった。

しかし、梅森先生の発表は、司会によって質疑応答の時間が設けられないまま終了させられてしまった。たしかに、当日の最初の発表者が時間を超過しており、梅森先生の発表の開始時間が大きく遅れてはいた。しかし、もともと設定されていた発表時間を守り、その上で重要な問いかけをおこなった梅森先生の発表に質疑応答の時間をとらないという態度自体に、疑問を感じざるをえない。

もうひとつ発表を紹介したい。Charalampos Babis Karpouchtsis先生による発表である。Karpouchtsis先生は、自身の発表の前にも、ある発表者に対して「国家の話ばかりをしていて、人間の話をしていない」といった非常に勇気ある問いかけをおこなっており、私はKarpouchtsis先生の発表をとても楽しみにしていた。実際、Karpouchtsis先生の発表は、その期待を上回る素晴らしいものであった。Karpouchtsis先生は、ギリシャ系キプロス人がトルコ側から被害を受けただけではなく、トルコ系キプロス人がギリシャ側から被害を受けた事実を直視し、両者の主張を取り上げてくれた。そして両者ともに、被害の記憶ばかりを優先して記憶しており、自分たちの加害の記憶が見えなくなってしまっていることを指摘していた。これは、梅森先生による問いかけとも呼応するもので、非常に重要な指摘であったと思う。見えなくなってしまった過去の闇にどのように向き合うのか、そのことを考えるところから和解を開始しようとするKarpouchtsis先生のスタンスがよく見える発表であった。

ケース・スタディとしてのサマースクール

8月29日の午前中、早稲田大学の国際和解学プロジェクトからの参加者のみで、本サマースクールについて意見交換するミーティングがあった。そのなかで紹介された、ある参加者の意見が、強く印象に残っている。それは「本サマースクール自体をケース・スタディとして和解を考えていくべきではないか」というものであった。この意見について、私なりに考えたことを記しておきたい。

本サマースクールは、さきほど述べたように、全体の論調として、ギリシャ側からのみキプロス問題を捉えようとするものであった。この論調から、私は、非‐ヨーロッパとしてのトルコから、ヨーロッパとしてのギリシャを明確に分離し、みずからのアイデンティを強化しようとする欲望を感じとった。おそらく、この欲望は、キプロス問題にコミットする一部のギリシャ系のひとびとだけに見られるものではないだろう。そのほかの多くの紛争の事例において、そのような欲望は見られるだろうし、相手を一方的に加害者とみなす傾向も見られると思う。

このことを踏まえると、和解学という試みは、この欲望それ自体がどのようにして構成されるのか、この欲望がどのような問題を導くのかを分析していく必要があると私は考える。そしてそのケース・スタディとして、本サマースクール自体を分析していくことができるのではないだろうか。「本サマースクール自体をケース・スタディとするべきではないか」という意見を私なりに受けとめた結果、以上のような結論に至った。

カヴァラでのサマースクールの様子

おわりに

以上のように、私見では、本サマースクールは和解を志向するものであるとは思えず、私は多くの疑問や異議を抱えて日本に帰国することとなった。しかし、そのような状況下でも――むしろ、そのような状況下においてこそ――、早稲田大学やイエナからの参加者の発表や意見は、非常に有意義なものであった。とりわけ、早稲田大学の国際和解学プロジェクトからの参加者でおこなったミーティングでは、メンバーそれぞれが、自身の学問的背景をもとに、本サマースクールを批評しており、そのすべての意見が刺激的なものであった。このような素晴らしいメンバーとともに、サマースクールに参加することができたことを、非常にうれしく思う。ナカサト先生がおっしゃっていたように、今回の経験をひとつのケース・スタディとして、今後も和解についての思考を深めていきたいと思う。

ただ、心残りがいくつかある。そのうちのひとつは、別件にて最後の行程まで参加できなかったことだ。帰国後のミーティングで梅森先生から聞いたのだが、私がギリシャを離れたのち、ギリシャのムスリムの方々ともお話しする機会があったそうだ。これは、カヴァラでのサマースクールの立場を相対化し、新しい見識を得るための重要な機会だったろうと思う。こう言ってよければ、その機会を得てはじめて、本サマースクールでの学びが完成したのではないかとさえ思う。そのような重要な機会を逸したことを非常に残念に思う。

また、私の日程の都合上、ギリシャでの若手研究者たちの研究発表を聴くことができなかったことだ。正確に言えば、常石憲彦さんの発表については、カヴァラ滞在時にホテルで個人的に聴かせてもらったが、そのほかの参加者の発表については聴くことができなかった。サマースクールの期間中の交流を通して、彼ら/彼女らの洞察の鋭さを感じてきたため、非常に残念に思っている。今後も日本でのミーティングや国際和解学会、サマースクールに積極的に参加し、若手研究者たちの発表を聴きたいと思う。

最後に、ドイツでのサマースクールの報告書でも述べたことではあるが、改めて、今回のサマースクールを組織してくださった、早稲田大学の浅野豊美先生、イエナのLeiner先生、Villanueva先生に深く感謝を申し上げます。また、早稲田大学の川口先生、小野坂元先生には、お忙しいなか準備に尽力してくださり、ほんとうにありがとうございました。