2024年8月下旬から9月上旬にかけて、ドイツ(イェナほか)にて開催されたサマースクールに引き続いてギリシャで開催されたサマースクールに参加した。まずカヴァラで開催されたサマースクールに参加し、その後クサンティ、テッサロニキ、アテネにて和解学に関係する施設や史跡を訪問した。
カヴァラではキプロス問題をテーマとする国際関係論、和解学、外交に関するサマースクールが開催された。私は、正直に言えば、このカヴァラで開催されたサマースクール自体については非常に否定的な印象を受けた。というのも、多くの登壇者がキプロス問題について一方的な側面からしか論じず、和解学を掲げているにもかかわらず和解学のアプローチからはほど遠い内容の発表が多く見られたからである。8月にイェナ大学を訪問した際、イェナ和解学センター(JCRS)のLaura Villanueva博士は、和解に向けた取り組みのなかで特に肝要なのは各アクターそれぞれの考えに真摯に耳を傾けることである、とおっしゃっておられた。しかし、このカヴァラでのサマースクールでは、多くの発表において、ギリシャやギリシャ人、ギリシャ系キプロス人の見解が唯一「正当」なものとみなされており、トルコやトルコ系キプロス人の見解は「不当」で一顧だに値しないものとみなされていたように見受けられる。「和解」という言葉こそ用いられていたものの、その「和解」を阻害しているのはトルコ政府であるといった見解も多く示されていた。彼らの言う「和解」とは、ギリシャ側が望む解決法という意味でしかなく、真の意味での和解とは異なる。そのような一方的な言い分が平然と述べられ続ける場においては、学術的な議論など成立しようもない。あるギリシャ人学生の参加者は、このような一方的な主張のみが展開されるサマースクールを「プロパガンダの場にほかならない」と言い捨て、「このようなプロパガンダを広めるためのイベントが私たちの国で行われていることに恥ずかしく思う」といった感想を述べていた。また、別の参加者も、「このイベントはギリシャ外務省によるマーケティングでしかない」と冷静に分析していた。同様の見解は、他の参加者たちも数多く口にしていた。私は、登壇者以外の参加者の大多数がこのイベントに対する否定的な印象を共有していることを知り、安堵した。
ギリシャ側からの登壇者の発表の多くが一方的なものであったのに対して、イェナ大学や日本からの登壇者の発表は学術的なものであり、私以外の参加者の多くも好意的に受けとっていたようである。例えば、サマースクール自体を「プロパガンダ」であるとして論難したギリシャ人参加者は、早稲田大学の梅森直之教授の帝国主義に関する発表や青山学院大学の熊谷奈緒子教授の慰安婦問題に関する発表には感銘を受けたようで、「キプロス問題に取り組む私たちギリシャ人参加者は、日本が抱える過去の問題を学術的な観点から議論しようとする日本からの登壇者の態度から学ぶべきである」といった趣旨の発言をしていた。また、イェナ大学の修了生で現在はヘルムート・シュミット大学/ハンブルク連邦軍大学に所属しているCharalampos Babis Karpouchtsis博士のご発表も、他のギリシャ側の登壇者とは異なり学術的なものであった。発表スタイルも参加者とのインタラクションを重視するものであり、一方的に長々と話して聴衆に言って聞かせるような他の登壇者とは大きく異なっていた。
カヴァラでのサマースクール自体は主催者側の政治的意図により否定的な印象を持たざるをえなかったが、カヴァラという街に滞在したことで学べたことは少なくなかった。特に歴史学を専門とする私にとっては、カヴァラがギリシャという枠組みを超えて地域・世界にどのような歴史的役割を果たしたのかという点が非常に興味深かった。サマースクールの合間に訪問したカヴァラ・タバコ博物館の展示や市内に残るいくつかのタバコ倉庫の跡地に設置されていた案内板の説明文から、バルカン半島南部におけるタバコ栽培とカヴァラにおける製造工程および輸出産業がヨーロッパだけでなく世界にもたらした影響を学ぶことができたし、この街のタバコ産業の衰退の歴史を通して20世紀の世界における経済の変容を見ることができた。ムハンマド・アリー博物館では、この街に生まれ、のちにエジプト総督として王朝を開くこととなるアリーの人生を通して、18世紀後半から19世紀前半の世界史的動向がこの地域に与えた影響を知ることができた。いずれも、地域というレンズから世界を学ぶことができ、それにより、私が専門とするリトアニア史を通じていかにして世界史的な流れを描くべきかという今後の課題を新たに得ることができた。

サマースクール終了後、ムスリムとクリスチャンが共存する街として知られるクサンティを訪問し、モスクで聖職者の方にお会いするなどした。残念ながら短時間の訪問であったため、あまり詳しいお話を聞くことはできなかったものの、ムスリムの学生との会話を通じてサマースクールでは知りえなかったことを多く学ぶことができた。このツアーはムスリムの学生たちによるイニシアティヴで実現したものであると聞き、このような機会を与えてくださった学生たちに対して感謝の念を抱いた。クサンティにはサマースクールの主催者も一緒に訪れたものの、モスク見学には同行せずそのときだけは別行動をとっていた。どのような理由からモスクに同行しなかったのかは知らないが、このようなツアーを企画してくれたムスリムの学生たちに寄り添おうとしない様子には失望させられた。
続いてテッサロニキでは、アメリカン・カレッジ・オブ・テッサロニキ(ACT)にて発表を行う機会に恵まれた。私は中東欧地域における犠牲者意識ナショナリズムと歴史記憶、そして安全保障の問題について発表した。なかでも特に、体制転換後の中東欧における移行期正義の取り組みの意義と犠牲者ナショナリズムの問題点について、誰がどのようにして犠牲者を認定するのかという点について質問を受けた。この点について、私は、個人の犠牲については歴史研究の蓄積によって認定しながらも、それを犠牲者意識ナショナリズム(犠牲者としての集合的歴史記憶)とは切り離して考える必要があると考えている。
テッサロニキでは和解学に関係する博物館や史跡をいくつか訪れることができた。テッサロニキはバルカン半島南部の中核都市であり、様々な民族が共存してきた歴史がある。現在でも、例えばACTからのサマースクール参加者に北マケドニアやアルバニアの出身者が含まれていたりなど、周辺国の人々にとっても重要な都市であることに変わりはないようである。テッサロニキには歴史的に多くのユダヤ人が住んでいたものの、1917年の大火で5万人以上が被害を受けたほか、第二次世界大戦中にはホロコーストにより9割以上が追放されたり殺害されたりしたため、現在この街に住むユダヤ人の数はわずか1000人を超える程度である。それでも街にはユダヤ人の遺産を数多く見ることができた。残念ながらテッサロニキに滞在した日数がわずかであったため、ホロコースト博物館などテッサロニキで必ず訪れるべき重要施設を訪問することは叶わなかったし、おそらく他の参加者の多くもこの街の多民族共存の歴史についてその痕跡を見て回ることはほとんどできなかっただろう。また、たとえば、私たちが滞在したホテルはユダヤ人によって経営されており、レストランではコシェルの食事が提供され、ホテル内にはシナゴーグも置かれていたのだが、そのことに気づいた参加者は皆無であったと思われる。アテネで古代遺跡などの有名観光地を回るよりも、テッサロニキに1日でも長く滞在し、この街の多民族共存の歴史をもっと深く学んだほうが、和解学に携わる私たちにとってはより有益であっただろう。また、サマースクールの事前課題として交渉術に関するビジネス本を読むよりは、テッサロニキの歴史や民族関係などを論じる学術書を読むほうがよほど学びは多かっただろうと感じる。このように、私にとってのテッサロニキでの学びは不完全燃焼に終わってしまったため、近いうちに再訪して、バルカン半島南部の歴史についてさらに見識を広めたいと思う。
