国民意識は東アジアにおいて、戦争や植民地支配の記憶とともに急速に作られ、政治体制に今も組み込まれ続けている。ヨーロッパにおけるドイツ国民がナチスによる一党独裁を許してしまったという点で、民主主義という価値を中心に第二次大戦を振り返るのに対して、東アジアにおける日本国民は、空襲や原爆という体験をイメージしながら、平和という価値を中心に第二次大戦は回顧され、教訓として刻まれる。しかし、なぜにして戦争が発生してしまったのか、なぜにしてその発生を抑止できなかったのかについての見解は、十分に統一されているとは言えない。
戦後70年に際して、安倍内閣が発した談話は、その戦争原因としての「国策の誤り」を2点に絞り込んだ。ひとつは、民族自決主義という世界的な潮流に反してしまったこと、第二は国際紛争の武力に頼らない、平和的解決原則に反してしまったことである。しかし、民族自決原則が1919年のベルサイユ講和会議以後に原則となって以後、すでに併合されていた韓国問題にいかに対処すべきであったのかについては触れられず、また、日露戦争によって経営権を得ていた南満洲鉄道の経営権問題にも、具体的な言及はなされていない。二つの原則に反し「世界の大勢を見失った」ことが反省点として述べられてはいるが、その反省は韓国や中国に向けられたものにはなってはいない。
自国民が体験した戦争を、特に、その被害者としての側面から想像することは、比較的容易である。また、平和という価値と結びつけて戦争を語ることが、日本人一般の思考様式となりながらも、具体的な他国民との和解にはつながらない。和解学が他国民との和解を想像し得る社会的条件を探求せんとするのは、こうした状況に対する一つの挑戦でもある。
しかし、この文章においては、そうしたことを前提に置きながら、私自身の体験を一つの例として、こうした戦争の記憶をめぐる状況を論じてみたい。私自身の戦争をめぐる記憶の核となっているのは、これから取り上げる祖父母にとっての戦争である。
祖父から聞いた日露戦争の記憶
近代日本は、二〇世紀において日露戦争と第二次大戦を二つの頂点とする戦争を遂行した。この二つの戦争と私の家族は関わっている。
私の祖父は、一八九七年一月生まれで、日露戦争が正式な講和条約によって終結した一九〇五年九月には、尋常小学校三年生の夏休み明けを迎えていた。日露戦争の終末期、日本は講和を予定して、樺太の領有を既成事実化して講和条約の俎上に載せた。樺太占領作戦は、五月から展開され、講和後には南半分の領有が承認された。その後、多くの兵士が樺太から北海道を経由して東北本線を使って青森から関東へと引き揚げる際、祖父は、その兵士を鉄道沿線に出迎えに行ったという。
この話を聞いたのは、私の大学院生時代であった。私は国際関係論専攻でありながら、日本の近代がいかに植民地帝国への道と重なったのかと代を総体としてどのように理解できるのかという問題意識をいだき始めた頃であった。
祖父の話によれば、兵隊さんは、単線であった東北本線を、蒸気機関車に乗って、嬉しそうに故郷へ帰っていったという。また、学校の先生に連れられた多くの子供達が、沿線で出迎え、日の丸の小旗を打ち振ると、樺太から撤収してくる兵士達は、紅白のモチをまいてくれたという。二〇三高地で乃木大将がどのような作戦を展開したのか、爆破坑を掘った話しは、子供時代に祖父からよく聞かされた。恐らく、それは、祖父が子供時代にその小学校の先生から教えられたものであったのだろう。
更に祖父の話は続いた。その東北本線が、一九世紀の末期に敷設された際には、祖父にとっての祖父、わたしからみれば高祖父が接収の世話役をしたということであった。高祖父は最初の妻を雷でなくしたために、後妻の「ゆう」をめとった。ゆうは、維新の際の会津戦争に敗北し士族から平民となった今田家の出身であった。士族の娘さんだけあって、立ち振る舞いはきちんとしたものであったという。その連れ子はどこそこに住んでいること、そして、「ゆう」ばあさんが会津へ帰郷すると、唐人タコをおみやげにもらい、それが隣の本家の蔵に入っていること、そして、ゆうばあさんは、祖父が徴兵され仙台の第二師団第二九連隊に招集された時、停車場まで送ってくれたことを聞いた。
そうした生き生きとした語りを通じて、私が生まれ育った空間は、にわかに、日本近代史の延長線上に見違えるようになって立ち現れてきたことを、もはや二十年近く前のことでありながら、ついこの前のように思い出す。その東北本線は、私が子供の頃は既に電化と複線化が終わり、東京まで父が出稼ぎで九時間かかった時代は過去のものとなっていた。しかし、私にとって、沿線の砂利道は、祖母に連れられてよくあるき、草餅の材料となる野草を摘んだりした懐かしい場所であった。また、私が出た小学校の校舎も、かつての尋常小学校と同じ場所にあった。私が子供の頃は、隣の小学校の鉄筋校舎がうらやましく、自分の学校なのに、いやでたまらなかった木造の校舎も、にわかに貴重なものに見えてきた。
調べてみると、私の小学校の木造校舎は一九四〇年の紀元二六〇〇年記念式典の際に、旧村有林から切り出された原木で建てられたものだった。また、その旧村有林が植林されたのは、明治維新前に米沢藩御領地が国有化されたのちに、村民が入会地として使用するべく村人が村の中で寄付を募って政府から払い下げられた時であった。私が小学生の頃、小学校の正門前にあった、漢字だらけの得体の知れない記念碑は、その起源二六〇〇年記念に校舎を新築した際に、当時からさかのぼって、六〇年ほど前の村有林払い下げに活躍した村の有志を顕彰したものであった。維新の激動を生きた人々を、昭和十五年に顕彰した碑であった。
オーラル・ヒストリーの手法を通じた戦争の記憶は、今盛んに研究されつつあるが、高度成長から取り残された農村に生まれた私は、歴史的な記憶に接する環境に子供時代からいたという点で、ある種、恵まれていたのかも知れない。語りを通じて、身近な記憶に接することで、ヒトは変わり得る。そうした記憶が、今、早稲田大学において担当している日本政治史への関心を喚起してくれている。
祖母から聞いた第二次大戦の記憶
次に私の祖母を紹介したい。祖母は、一九〇五年生まれで、農村の女子で文字が読めるようになった最初の世代であった。私が小学生の頃、汽車で連れられて福島市に買い物に行くと、祖母は駅の改札の上部に掲げてある到着出発の時間表をしげしげと下から眺めながら、文字が読めるということは本当にありがたいことだとよく口ずさんでいた。幼稚園に入る前の私は、祖母から囲炉裏を囲みながら、周りの敷き詰められた灰の上に火箸(ひばし)で、五十音をかいてもらい文字を覚えた。
祖母が、時に涙ぐみながら語ってくれたことは、「ゆきおあんちゃん」の話であった。私の伯父・幸男(ゆきお)は、一九二二年生まれで、一九四三年に徴兵され、フィリピン等のレイテ決戦に動員された。しかし、フィリピンに到着する途上の一九四四年八月半ば、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、アメリカの潜水艦に乗船していた輸送船帝亜丸が撃沈されて海の屍と消えた。いよいよ、南方への船が出るという時、その直前に、幸男は帰郷を許され、午前三時ぐらいに歩いて家に帰ってきた。そして、爪と髪の毛を置いて、その日の朝早くには千葉の戦車師団の原隊に帰っていったという。戦争が終わって、近所の若者が次々に帰ってくるというのに、幸男は帰らないままで、どうしたものかと、近所の同じ境遇にあった別の母親とよく話したという。
祖父と祖母は、1946年ぐらいから福島県の援護課に相談に行ったが、戦死の正式な通知があったのは、戦争が終わった翌年の夏ごろであったという。聞かされた話では、帝亜丸撃沈の際は、最初の魚雷を受けても何とかそれをしのいで航行していたものが、二発目三発目を受けて撃沈したという。近くの船に救助された方が恐らくかたって下さったのであろう。
それにしても、深夜に帰ってきた時は、そこでゲートルを脱いだと言われた場所は、私がよく遊んでいた土間の玄関の一角で、たきぎを置いてあった場所であった。また、その爪と遺髪が埋められた場所は、私の幼少の際の記憶にかすかに残る移転前の村の共同墓地であった。私が小学校三年生の頃の1972年前後、列島改造論にのって東北縦貫自動車道路の用地買収が進み、共同墓地は掘り返され、裏手の伊達家の城跡にあたる高台に、墓地は移された。子供ながらに、花を持って苦労して坂道を登った記憶が蘇った。線香のけむるあの場所に、埋葬された爪と遺髪は、どのようになってしまったのか、否が応でも想像力をかきたてられる記憶となって、祖母の話は私の心に焼きついた。
被害の記憶と感情、そして和解の芽
こうした話は、大学院生の頃に文書化したために、今でもそれは私の記憶としてここに発表することもできる。しかし、改めてオランダ行きの話をいただくまで、こうした話は私の意識からは、ほぼ消えていた。改めて振り返ると、自己を対象化することができない子供時代に、祖母の語りがどのように私自身に内面化されていったのかを考えるために、貴重な記録となっている。祖母にとっての戦争は、一番の心の痛み、長男を失ったことが全ての中心となっている。人間が心のバランスを維持しながら、その後の人生を生きていくために、記憶は再形成されるということができるであろう。その反面、祖父から聞いた日露戦争の話は、祖父にとって、そしておそらく近世以来の日本の農村の子供達にとって初めての、鉄道という近代的文明装置の導入と結びついているようにも感じられる。祖父にとっての祖父が、鉄道用地の買収を行なった話も、合わせて聞かされたからである。また、祖父はいつも鉄道のそばにある畑を大事にしていたことや、その鉄道に沿って歩くこともしばしばあったが、それは祖父にとっての祖父の思い出とも重なっていたのかもしれない。近代という時代が、常に過去の記憶を意識しつつ、その意味を考え主体としての意思を育む個人によって作られることを改めて考えさせられる。
こうした体験の延長に、私も研究者となってからは、各国民に刻まれた国民的記憶と、国民相互の和解可能性を考えるようになった。大学に入った私が直面したのは、植民地時代の記憶を祖父母や両親から聞かされて育った留学生たちであった。台湾と韓国の留学生との個人的な出会いを通じて、その植民地時代の記憶が好対照をなしていることが深く心に刻まれた。韓国の留学生一般にとって、植民地時代の記憶は、本来であれば、「存在してはならなかった時代」の記憶である。それに対して、台湾の留学生にとってのそれは、「まさにそれゆえに台湾人が生まれてきた時代」の記憶である。その二つの軸の間に、近代化のライバル、あるいは「勝者」として日本をみなす中国人留学生の記憶があるということができるかもしれない。いずれにせよ日本周辺の国民の感情は、日本という存在を抜きには語れない。それは「西欧」「列強」を抜きに、それをモデルとしてきた日本の国民感情が語れないのと同様であろう。第二次大戦中のオランダ民間人への残虐行為は、まさにその裏返しということができるであろう。
おそらく、それぞれの国民との間で、具体的な和解の仕方は異なるものとなることであろう。しかし、あえて一般化すれば、国民的な感情相互の和解にあたっても、(1)自分自身の感情が想起されるところの記憶をより客観的な歴史と結びつけて冷静に他者に語り得るようになること、(2)人間の他者への感情には、共感(sympathy)、哀れみ・同情(compassion)、そして友愛(仏: fraternité、英: fraternity)が入り混じっている(Ute Freverr, Emotions in History: Lost and Found)ことを自覚化すること、この二つが最低限必要であるように感じられる。「共感」は対等な関係での感情であるのに対して、「哀れみ・同情」は文明的・文化的な上下関係の中での感情、そして「友愛」は同じ国民・民族に向けられた感情である。
和解の困難さは、こうした感情が一人の人間に向けられるよりは、国民という集団に対して向けられてしまう傾向から、人間が自由になれないことにある。
国民としての感情が想像されたものであることは、アンダーソン『想像の共同体』に詳しく説明されている。そうした同じ国民としての感情を支えているのが友愛であり、それは同じ言語を話し、同じ習慣をもち、何らかの形で容易にコミュニケーションが取れる存在であることが、少なくとも20世紀の第二次大戦の頃までは一般的であった。戦争は、何よりも、そうした友愛の感情を国内で高めることを絶対化し、それ以外の感情を統制することから起こったということができるであろう。ユダヤ人や外国の国民に対する時、人間一般に対して感じる共感のみならず、哀れみ・同情さえも政治が統制することによって、さまざまな行為は生み出されたのである。ユダヤ人の虐殺や、民間人の収容はその典型的な例であろう。
経済力のみならず、生産活動を支える人間の心理やそれをささえる思想までも戦争へと動員するところの総力戦という戦争においては、さらに人間の感情も戦争に動員される。国民としての友愛の感情は、多国民への差別・侮蔑を含んだ優越感に高められ、多国民への共感も哀れみさえも差別的な構造の中に組み込まれるといえよう。
戦争の時代を体験していない世代に、いかに戦争を伝えていったらいいのか。感情という存在を、論理的、冷静に、研究の対象としていくこと、そして歴史の記憶によっていかに国民的感情が生み出され操作され、時には体制を正統化する装置とされていくのか、さらに民主化運動そのものがいかに新しい記憶を掘り起こし、そうした感情的記憶を推進力として展開されてきたのか、特に東アジアを焦点に、国民統合のダイナミズム・力学を具体的に解明することが必要となろう。
個人的には、国際協力によって展開される新しい次元の歴史学を通じて、自分のうちにある国民感情を、他国民へ向けられる感情と組み合わせて、冷静にみつめることができる若者が増えて欲しいと願う。私の祖母のその息子(私の伯父)に向けられた感情、それを生きた記憶として私に与えてくれた、今はなき祖母を思い出しつつ、それを単なる個人的なものにとどまらせることなく、感情を研究していくための、ありがたいプレゼントとして噛み締めている。

戦後19年・オリンピック前の1964年春、福島県桑折町の桃畑にて、著者と父方の祖母(1905年生、当時59歳)