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ソウル大学・イコモスとの共催による紛争遺産をめぐる国際会議(2025年6月14日)歓迎の挨拶

浅野 豊美

早稲田大学 政治経済学術院 教授

国際セミナー「紛争遺産の解釈をめぐる言説の衝突:平和構築と和解のための対話を育む多様なコミュニティの役割」にご参加の皆様へ

2025年6月14日(土) 早稲田大学3号館

全世界からご参加いただいた参加者の皆様、そしてお招きしたユネスコ世界遺産や文化財を焦点に長年にわたって研究を続けてこられた研究者の皆様、本日は雨の中、ここ早稲田大学3号館に足を運んでいただき、誠にありがとうございます。この紛争遺産をめぐる国際会議の主催は、ユネスコ世界遺産に係る市民のネットワークともいうべきイコモス、韓国の最高学府であるソウル大学の国際研究所、そして早稲田大学で国際先導研究として国際和解学を推進する現代政治経済研究所、ならびに国際和解学研究所の共催によるものです。

 紛争遺産とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、世界遺産と言う人類共通の遺産として認定されたにもかかわらず、遺産に対する意味や解釈において、あい入れないような見解の相違が存在するような遺産であり、また、こうした性格ゆえに互いの社会を形成しているところの共有された感情や集合的記憶を尊重しつつ、専門家と市民が対話しながら、両国民を納得せしめられるような慎重な展示、それは創造的であり、かつ批判に耐え得るような展示、が求められる遺産、そのように定義させていただきたいと思います。

 本日、この場には世界遺産について長年研究されてきた著名な研究者のみならず、遺産を見る側の人間や、そうした人間を結びつける社会を研究した研究者が、一堂にそろっております。

 申し遅れましたが、私自身は、国際関係学と歴史学を組み合わせた視点から、国民が無意識のうちに共有する国民的集合的な記憶と、国際規範としての普遍的な価値に関して研究を続けてまいりました。具体的には、植民地支配や、戦後の日韓国交正常化に関して、歴史学と国際関係学を合わせた立場から、過去の様々な可能性を新たに再発見しつつ、未来に向けた創造的な可能性へと、それを結びつけるべく研究をしてきたように思います。

 私が文化財に対する関心を深めましたのは、文化財の問題には、文化財そのものをめぐる展示の問題からアプローチする以外に、文化財を見る側からもアプローチができるということを見出してからです。見る側の視点と言うのは、見る側の人間が、無意識のうちに囚われてしまうところの要素です。つまり集合的記憶やその背後にある人権や豊かさなどの普遍的な価値や国際規範という枠組みのことを指しております。一言で言えば、見る側の人間を動かしているナショナルな視点といえるでしょう。たとえ博物館の学芸員がグローバルな視点を有していようとも、博物館が国民的な枠組みの上で運営されている限り、予算的な制約もあって、ナショナルな意味や認知を意識せざるを得ない状況があると思うからです。

言うまでもありませんが、我々の各国におけるそれぞれの民主主義は、ナショナルな集合的な記憶に依拠しながら、あくまでも国民の代表を通じて機能しておりますし、税金も国民単位で集めて政府を構成しています。また安全保障も、そして時代を変えていくような大規模な技術投資も国民国家という枠組みを単位として強力に行われ続けています。

 今は亡きベネディクト・アンダーソンというアメリカ・コーネル大学の先生が、ナショナリズムについて、国民と言う集団は心の中で想像されているものにすぎず、それが人間の愛着心の対象となっていく過程には、出版資本主義の台頭のみならず、宗教、官僚制、政治的正統性などから構成される、巨大な文化システムの変化があったという問題を提起し、それを全世界にナショナリズムがいかに拡散したのかという視点から説明しようとしたことはよく知られています。アンダーソンが主張した重要な点は、時間が均一で、過去から現在、現在から未来へと機械的に流れていくと信じられようになった近代という時代において、国民の言語が、均一な時間を超越した、はるか古代に誕生したと信じられた点で、また、不特定多数の巨大な集団の構成員に共有され、毎日もたらされる情報と、個人の感情生活を支える絆となった点で、人間を国民として団結させ、不特定多数の人間を団結させたという点です。

この言語の役割と似た役割を、文化財は担っているのではないでしょうか。文化財を長年研究されてきた方にとって、それは常識であるとは思いますが、文化財は国民の宝として、国宝として大切に保管され、展示されてきました。この点で、言語同様に、国民的な想像力を刺激して止まない存在です。文化財は、ナショナリズムの時代にあっては、国民の文化財として我々の前に存在していると言えるでしょう。

しかし、グローバル化時代の歴史家として、私は文化財の中には、国民を超える可能性が眠っているのではないかと考えてやみません。国民の時代に生きた人間には理解できない様々な記憶が眠っているものこそ、実は「紛争遺産」なのではないでしょうか。もちろん国民としての苦難の記憶と係る遺産や文化財があることは当然です。もあり、それは他国民の苦悩への共感の象徴として受け止めることも必要でしょう。しかし、それが不必要に被害と加害に関わるナショナリズムを掻き立てる現象に我々は直面しています。こうした状況を超越していくための一つの道は、そうした紛争遺産が、実は、国民を国民たらしめた出来事や、集合的記憶に関わっているものとして受け止め、お互いの国民的視点自体を、歴史化して、頭を冷やして対話するための材料として捉えることではないでしょうか。

この歴史化の過程こそ、本来、人間ひとりひとりの生まれながらの権利が、国民の権利という形で、集合的なものとなっていくプロセスであると思いますが、それはリンハントと言うドイツ人の社会学者が、人権の創造という本の中が唱えている点であります。

 振り返ってみれば、人類の歴史には、奴隷性あり、植民地支配あり、戦争がありました。現代人には考えられないような状況の中から、人間は国民と言う集団に目覚めたと言えるでしょう。つまり 他国民が中心となった支配と抑圧の下から、新しい国民は目覚め、立ち上がってきたといえるでしょう。

 アメリカ独立革命が成功し、それがフランスにおける革命を引き起こして以来、人間が生まれながらにして自由であり、平等であると言う人権の理想は、いつしか国民としての権利の平等の問題として、国民内部と外部の差別と平等の問題とし、読み変えられていきました。つまり、人権はナショナリズムと結合しながら、ナショナリズムを西ヨーロッパから南米へと、そして南米から再び西ヨーロッパの周辺の見中欧と東欧地域へと、そしてアジアアフリカへと拡散させました。

 19世紀半ば以来、ヨーロッパの国民同士が、産業革命と徴兵制によって、国民国家を作り上げ、競い合って、帝国主義国家同士として、世界的に膨張したことによって、そしてその後の世界戦争と、それに続いた独立によって、アジアアフリカを含む全世界は、国民国家によって最終的に埋め尽くされていったと言うことができるでしょう。

 こうしたグローバルの歴史の中で、国民の集合的な記憶を刺激するものとして選び取られたものこそが、国民的な文化財ではなかったでしょうか。しかし、国民と国民党が激しく摩擦し対立し、抑圧した歴史と触れ合うような文化財に関しては、今でも、国民的な記憶に基づいた解釈の違いが大きな対立を引き起こしています。

 グローバル化の時代にあって、紛争遺産と言うものに向き合おうとする我々は、今こそ、文化財の中に潜んだ新たな可能性を掘り起こすことで、共通の未来を築くことができるのではないでしょうか。文化財を発掘し陳列し、展示するのが人間ですが、そうした人間は、国民という複数の巨大な集団に分かれて、今でも安全保障や経済の重要な権限を、各国民がコントロールしている主権国家に委ねています。そして文化財も、そうした政治的な枠組みの中で、あくまでも国民的な解釈の枠をはめられ続けているように私には思えます。

今後の議論は、これから続くセッションの中で十分に展開されるものと期待しますが、ユネスコの世界遺産こそ、そうした国民的な枠組みの中で守られてきた文化財を、新しい時代のユニバーサルなものへと、真に人類的な文化財へと昇華させていく大きなステップであることを信じて、私の歓迎メッセージを締めくくりたいと思います。

本日のシンポジウムを通じて、世界遺産と文化財に関する研究と、ナショナリズムや紛争と和解に関する研究が出会うことによって、文化財をめぐる紛争に積極的な意味が与えられるようになること、そして、文化財をめぐる紛争に向き合うことによって、我々が今の時代を歴史化し、新たな次元へと人間の社会を引き上げられるように願ってやみません。本日が、ご参加いただいた皆様一人一人にとって、国民国家の時代を意識しながら、それを超越して、国民的社会の1つ上に、グローバルな社会が作れるのではないか、そうした予感や手がかりを発見するための重要な日になるように祈ります。

 皆さんのご発表と討論を楽しみにしております。本日はどうかよろしくお願い申し上げます。

(参考までに、早稲田大学を拠点とする国際和解学プロジェクトにつきましては、是非以下のウェブサイトをご覧いただきたくお願い申し上げます。https://memory.w.waseda.jp/en)