ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2025ソウル 国際和解学会

記憶と語りから考える和解の多様性

米沢 竜也

神戸大学大学院国際協力研究科 部局研究員

1. はじめに:和解の多様性に向き合う

     2025年7月、国際和解研究プロジェクトの一員として、韓国・ソウルで開催された国際和解学会(IARS)ソウル大会に参加する機会を得た。本学会で報告された研究は、国家間、民族間、個人間といった様々な「主体」を対象に、歴史学、社会学、哲学・心理学といった異なるアプローチを用いた研究が数多く報告されていた。和解に関する多様な実践と理論に触れることで、和解という概念が単に確立された枠組みとしてあるのではなく、今まさに構築されるダイナミックな過程にあることを実感した。研究者たちとの議論を通じて、和解が「和解学」として展開され、社会的な意義を持っていく可能性を十分に感じることができた。

     とりわけ印象に残ったのは、開会式での李鍾元教授(早稲田大学)による基調講演である。李教授は講演冒頭、解決困難な問題(アポリア)において、社会的妥協に比べて正義がおろそかにされてきたと指摘した。そして、これまでの和解は、加害者が被害者に許しを求める道徳的和解や、法の支配(リベラル的制度)の確立による和解、という了解型の和解モデルが中心であったとしたうえで、それがしばしば価値の押し付けや解決策の強制に陥る危険性があると指摘した。これに対して、他者との対話と熟議の場を開く闘技的和解、そして、互いになくてはならない存在として認める相互依存的和解といった、過程型の和解モデルを提示した。

     李教授は、冷戦後、人権規範の広まりとともにこれまで周縁化されていた人々を対等な構成員として政治共同体(国家)へ包摂する必要が高まり、その中で和解が重要なアジェンダとして浮上してきたことを指摘した。また、こうした政治過程において、和解はもはや一過性の合意ではなく、語りと実践を繰り返しながら、「国家対国家」「人対人」のあいだで「われわれ」意識を構築するプロセスであるという考えが重要だと主張した。これらの内容は、後述する私自身の研究発表とも深く共鳴するものであった。

    2. 東学農民戦争の遺族の語り

       私の研究報告「The Struggle for Recognition and the Barriers to Reconciliation: The Donghak Peasant War Descendants in Post-Democratization Korea」は、韓国の民主化以後における東学農民戦争の遺族たちの語りの継続に注目するものである。本報告の出発点は、国家が東学農民戦争を「正義と主権のための闘争」として公式に承認したにもかかわらず、なぜ遺族たちは語り続けるのかという問いである。

       1894年の東学農民戦争では、多くの農民が支配階層や外国勢力への抵抗のもと立ち上がったが、朝廷軍や日本軍の鎮圧によって多くの犠牲者を出した。戦後長らく彼らは「反乱者」として位置づけられ、国家の歴史から排除され、社会的にも抑圧された存在であった。しかし、1960年代以降徐々に再評価が進み、2004年には特別法が制定され、農民軍の正統性は国家によって認められることとなった。

       1990年代から2020年代にかけて収集された遺族の証言を検討すると、当初予想したような緊張関係よりもむしろ、国家の語りと遺族の語りが次第に共鳴・補強しあうような関係へと変化していることが明らかになった。例えば、遺族の語りは「祖先は正義のために戦ったので誇りに思う」という語りから、「東学は韓国の民主主義の起源である」という語りへと、家族の誇りから公的正統性に重点が移行していた。それにもかかわらず、遺族たちはなお「祖先の闘いの意味を再確認し、承認されるべきだ」と政府や社会に主張し続けている。私はこの現象を、国民的記憶の競合という観点から分析した。すなわち、国民的記憶とは公的・民間・個人的な領域の記憶が交差し、時に競合しながら形成されるダイナミックな過程である。東学農民戦争もまた、公的な記憶と遺族の語りの間に何らかの競合があるのではないかという仮説のもと、分析を試みた。

       興味深いのは、この語りにおいて、かつて農民軍を弾圧した政府や支配層(両班)、あるいは日本軍といった加害主体については明確な言及がほとんど見られない点である。ゆえに、「謝罪」や「責任の追及」といった要素は希薄であり、従来のような加害・被害の関係を軸とした和解モデルからは逸脱している。

       遺族たちが繰り返し語るのは、「祖先は正義の側にあった」「私たちはその正統な後継者である」という点である。これは、国家への承認要求でありながら、それが語りの終わりではなく、「語ってよい存在なのだ」、「われわれは国家からの承認に値するのだ」というということを繰り返し確認する実践のようである。遺族たちの語りの継続は、国家や社会の承認を求めているだけでなく、自分を歴史の中の存在として位置づける営みともいえる。

       遺族たちは教育現場での記憶の定着、史料の発掘、地域活動といった具体的な実践を通じて、かつて抑圧されてきた記憶を公共の場に組み込む努力を継続している。このような実践は、和解を一過性の政治的合意としてではなく、語りの反復を通じて継続的に実践される「過程型の和解」として捉えるうえで、和解の理論や実証として示唆的である。

      3. 今後の課題と展望 

         本報告に対して、質疑応答では二つの本質的なコメントがあった。一つは、遺族の承認要求の持続が和解と言えるのかという点。もう一つは、この事例が特殊なのか、それともほかの事例にも一般化可能なのかという点である。どちらも、「この事例は和解の実践と言えるのか」という根本的な問いにかかわるものだった。

         第一の問いについては、李鍾元教授の基調講演で示された「過程型和解」モデルを参照することで整理が可能である。すなわち、国家による承認と遺族による証明の語りが繰り返されることで、和解が一回的な合意ではなく、持続的に実践される動的な過程として成立していくという理解である。東学農民戦争の遺族たちの語りもまた、そのようなプロセスの一形態として捉えることができるかもしれない。

         第二の問い、すなわち「加害者が明示されていないことによって、この事例が特殊なのではないか」という指摘については、和解を加害者との対話によってのみ成立するものとする理解を見直すきっかけとなる点で、より一般的な意味を持つと答えたい。本報告が示唆したのは、「語ること」そのものが、他者との関係性の中で自分を位置づけなおす営みであると同時に、自らの歴史的存在を承認しなおすプロセス、言い換えれば、自己との和解としても機能しうるのではないか、という点である。この意味で、和解の対象は必ずしも明確な加害者であるとは限らず、「語ること」の反復を通じて、自身を歴史の中に位置付けていく行為そのものが、和解の実践であるのかもしれない。

         このように、「語ること」を通じて自らを歴史の中に位置づけ直す営みは、李教授が指摘したように、「われわれ」の再構成としての和解の一形態とも理解できる。今後は、こうした語りの実践がどのように共同体への包摂や新たな承認の枠組みを生み出すのかを考察しながら、「和解」の概念を拡張して考察していきたい。