今回の発表は、沖縄戦の記憶が歴史的および社会的観点の双方から見て、現在における沖縄と日本本土との関係にいかなる影響を及ぼしているかを考察するものである。
かつて沖縄は琉球国であり、1609年に薩摩藩の侵攻を受け、1879年には日本により正式に併合された。併合以降、沖縄の人々は日本社会への同化政策にさらされたが、本土からの根深い差別は続き、真の受容には至らなかった。このような緊張関係は、1945年の沖縄戦において頂点に達することとなった。沖縄戦では20万人以上が命を落とし、その中には多くの民間人および沖縄出身の兵士が含まれていた。日本軍は沖縄を本土防衛の「捨て石」として扱い、住民に投降を禁じ、自決を促すなど、極めて過酷な状況に置いた。
このような戦争体験の記憶は、現在も沖縄社会に深く根付いており、在日米軍基地の問題とも密接に関連している。沖縄には日本国内の米軍施設の大半が集中しており、戦時のトラウマと現代の軍事化が重なり合っていることは明白である。「沖縄戦の慰霊は基地をなくすこと」といった地元のスローガンに見られるように、記憶は政治的表現と密接に結びついている。
発表者は、真の和解のためには、対面的な対話と相互理解が不可欠であると主張する。「犠牲する者と犠牲にされた者」という哲学的視点から見れば、国家政策によって繰り返し沖縄に負担が押し付けられてきた現実を認識することが重要である。皇室による沖縄訪問や、本土住民が基地反対運動に参加することなどは、和解に向けた初歩的な一歩として評価しうる行為である。
結論として、発表者は、真の和解には教育・政策形成・メディアを通じた持続的な取り組みが求められると論じる。沖縄戦の記憶は、単なる過去の悲劇の追憶ではなく、現在も沖縄社会が直面している不平等に対する問いかけであり、政治的行為としての意味を有しているのである。
拙報告に対して、西江大学の李憲美教授より以下のようなコメントをいただいた。李教授は、基地反対運動における可視的な抵抗に加えて、沖縄の人々の間にはより微細な、隠れた形の抵抗も存在しうるのではないかと指摘された。そして、ジェームズ・C・スコットが提唱した「hidden transcripts(隠された言説)」の概念は、沖縄の文脈にも適用可能であると示唆された。
この指摘に対して、私は「hidden transcripts」の概念は沖縄の歴史において確かに頻繁に観察されるものであると応答した。その明確な例の一つが音楽である。沖縄の音楽は旋律の美しさで知られており、表面的には島の美しい風景を讃えるもののように聞こえる。しかし、歌詞に注意深く目を向けると、多くの曲が沖縄戦の時期に経験した苦しみや痛みを描いていることが明らかとなる。
代表的な例として、沖縄出身の音楽家・海勢頭豊によって1982年に作られた「月桃」が挙げられる。この曲は沖縄が日本に「復帰」してから10年後に制作されたものである。当時の沖縄社会では、「復帰」が果たして良かったのか否かを明確に評価することが困難な時代であった。戦後数十年を経ても、戦争について自由に語ることは容易ではなかった。「月桃」において海勢頭は、沖縄の在来植物である月桃や、戦争と結びついた沖縄の風景を通して、平和への切実な願いを表現しているといえる。
このような事例は、戦争による傷を直接的に語ることが困難な状況において、音楽がそれを優しく媒介する手段となり得ることを示している。また、「復帰」にもかかわらず依然として沖縄に軍事基地が存在し続けているという事実に対する、暗黙の批判をも含んでいると解釈することができる。この意味で、「月桃」のような楽曲と基地反対運動とは、表裏一体の関係にあり、いずれも沖縄の人々が戦争の記憶と持続するトラウマに対して示す応答の一形態であると言える。
一方で、もう一つの問いが生じた。それは、沖縄と日本本土(あるいは私の出身地である台湾を含む)の関係や和解を語る際、しばしば対話の争点となるのが、沖縄が求める平和と非軍事化と、日本本土(および台湾)が求める国家安全保障と独立との間に存在する、解消しがたい矛盾であるという点である。
より具体的に言えば、日本本土や台湾が追求する「安全」とは、外敵からの侵略を防ぐことを意味しているのに対し、沖縄が求める平和と非軍事化は、現在沖縄に駐留している外国軍による暴力から免れるという意味での「安全」であると解釈できる。では、この二つの「安全」は、いかにして共存し得るのだろうか。
明らかな事実として、東京が自国の安全保障の追求に伴う社会的・空間的な負担を沖縄に転嫁している限りにおいて、日本本土と沖縄との和解の可能性は著しく損なわれることとなる。
この点に関して、私はIARSにおける基調講演において、イェーナ大学のライナー(Leiner)教授が提示した概念を思い出した。ライナー教授は、和解がある場合には社会の安全性を高めることにつながる一方で(ルワンダの事例)、別の場合には必ずしもそうとはならない(南アフリカの事例)と指摘している。
この視点を踏まえると、日本本土(あるいは台湾)と沖縄との関係を考察する際に、それぞれの立場における「安全」への関心をいかに適切に扱い、双方の尊厳を損なうことなく応答していくかという点が、和解を実現する上で極めて重要な課題であるといえる。理想的には、両者が求める安全がともに保障され、平和的共存が可能となることが望ましいが、それを現実の中でいかに実現していくかについては、引き続き深い熟慮が求められる。