主権者としての国民が前提とする感情・記憶・価値
前回は和解学のエッセンス的なものを、 普遍的な価値と国民的な記憶の結合が、 民主化の進行を契機にして起こったことを中心に話した。和解学の手法、基本概念、そして論点は、以下の5点にまとめられる。
1.国内政治と国際政治というように異なる次元で起きているとされる現象を、国民という集団が今も変容していることに注目しながら、次元を超えて統合して考える。
2.必要な理論的枠組みを多分野の学問を総合して整備し、多くのフィールドワーク(もしくは歴史学的な事例研究)も行う。現実に起きている現象それ自体のフィールドワークも和解学の範疇である。
3.国民感情の共有の上に、代表選出と多数決原理を要とする現代の民主主義が理念として機能していること、その上で国民感情を揺さぶる歴史的に共有された記憶と、その記憶を選択せしめている普遍的価値(福祉・豊かさ、人権・自由等)の複合体に注目する。
4.国民感情・記憶・価値の複合体という主観的存在が、国際政治においてはソフトパワーの材料を提供し、国内政治においては正統性の一部となって、相互に影響を及ぼし合っている点に注目する。この相互作用を中心に、主観的存在を社会的機能という点で客観化すると同時に、国内と国際をまたいでこうしたアプローチを展開する。
5.国民感情を支えているアクターとしての政治家、メディア、学者、市民運動がそれぞれ有している個別のトランスナショナルなネットワークと、それを支える市民として共有する価値・記憶・感情の複合体が、国民としてのそれとの間でいかに摩擦するのか、その摩擦にパワーや経済的利益はどのように関わっているのかを考える。
「時の法令」読者にとって、憲法学は馴染み深い学問であろう。憲法では、国民主権が当然の前提とされる。しかし「国民」という集団自体の歴史性や政治的性格は十分に意識されているであろうか。主権者であるはずの「国民」という集団は、匿名の膨大な数の構成員からなるにもかかわらず、いかなる意味で集団と呼べるのであろうか。どのような社会的機能を期待され、「文明開化」・近代的産業化の中でいかに思想的政治的に形成され、構成されてきたのか、少なくとも学校教育で問題化され触れられることはない。縄文の昔からあるものという前提で、事件や人名の暗記として「歴史」が展開されていることは言うまでもない。同様に、今までの国際政治学においても、リアリズム的見方をとるにせよ、パワー、国益、国際法という三つの論理自体の前提であるはずの「国民」という主体内部の構成やそれ自体の変化の可能性は、次元が異なる問題として切り分けられてきた。
確かに、ナショナリズム論という学問分野においては、国民が想像されている存在に過ぎないことは一般化している(ベネディクト・アンダーソン)。しかし、その国民が想像されるメカニズム自体が、国内における格差の拡大や、国際政治におけるパワーの盛衰やパワー自体の性格の変化(ソフトパワー・規範の重要性の拡大)と、いかに関わりあい構造化され現実の政治問題を引き起こすのという問題は、包括的な議論の対象とはなってこなかった。
和解学では、国内外の研究者と連携し国際和解学会を組織しつつ、国民としての感情や記憶を支えているアクターとしての政治家・外交官、歴史家、メディアや教育等の文化人、市民運動家にも門戸を開いている。目指すは和解の直接的主張ではなく、むしろ和解自体に反対し正義を主張する人々も含めた対話の場である。また、人々を熱くさせる政治的構造の探究である。国民を構成する感情・記憶・価値、そしてそこから排除される人々のそれをも分析の対象としていきたい。
国民という主権者の集団を構成しているところの国民感情・国民的記憶、そしてそれらを支える普遍的正義・価値を学問的対象とできてこそ、我々は生身の人間としての感情を、ある程度客体化して、頭を冷やしながら、国民となりきれない人々との間で、また国民相互でも対話を続けていくことができるであろう。国民が主権者であることを当然の前提とする時代に生きながら、我々は、今まで、そうした国民としての記憶や感情が、近代という短い時間の中に構築されてきた存在に過ぎないこと、国民であるよりは市民であり続けようとする運動の意味、歴史的背景と限界に、あまりにも盲目ではなかっただろうか。そうした盲目こそが、歴史問題を生み出し続けているように思われるのである。
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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