国際和解映画祭に寄せて(2)ー国民に共有される記憶、結びつく価値/感情
国民という集団が、記憶・感情・価値の複合体で成り立っていることは連載第二回で述べた。もちろん、市民的な権利と義務の共有こそ、統合のエッセンスであるべきだとの反対論がある事は承知している。しかし、民主的に構成員を決定することはできない。のみならず、言語の共有は討論のための大前提である。歴史的な記憶の共有をベースとする国民が、実質的な民主主義の単位とならざるをえなかったのは米国さえ同じである。そうであるからこそ、歴史的記憶の共有によって生み出される国民感情は無視できず、また、記憶と一体となり、かつ、記憶が過去の事実から選び出され凝集される際に依拠する価値も、民主政治の実際観察には意識する必要がある。
この記憶・感情・価値の複合体は、もちろん、さまざまな国内外の制度や、現実の力関係から影響を受ける。しかし、ある集団なり人間が、そのものであり続けようとすれば、何らかの一貫性は維持される。それこそが、心理学でいう人格に該当するものであり、集団にとってはアイデンティティと呼ばれるものである。
国際和解映画祭として私が期待してやまないのは、将来こんな映画が現れることである。ある場面では日本人が泣き韓国人は黙ってそれを見ている、次の場面では韓国人が泣き日本人は黙ってそれを見ている、何回かそれが繰り返され、最後の最後では一緒に泣ける。そんな歴史ドラマを生み出し、創造することはできないものであろうか。可能性はあると認めてくれた方も、「言うはたやすいが、ストーリーの構想が難しく、制作コストが膨大で、その割りに、マーケットが小さい」とも指摘された。
しかし、こうした未知のドラマに、未来という時間を意識した需要、未来の地域的公共性があることは間違いない。それを実際に生み出すための理論的な検討と、それに従った政治的な意思が不可欠である。世界が民主主義のあり方を巡ってきしんでいる今こそ必要ではないか。
和解学が注目するのは、そもそも人間個々人が「共感」を通じて集団を形成するに際して、共有される感情と記憶は共有される価値と一体となって、いかに社会的・政治的に機能するのかという点である。誰しも「打ち解けた」仲間が中核となった集団と機能的集団の違いは分かる。国内の民主主義は、現実の業界や企業利益、格差や福祉の問題のみならず、いかに国民の不安に応え、その共有される感情や価値・記憶に働きかけるかを意識することで、底辺の参加を伴う生き生きとしたたものとなる。
記憶・価値・感情の複合体として、国民こそが主権者である、という時代に我々は生きている。江戸時代にも確かに「ひのもと」はあった。が身分もあった。現在、人間として、国民として「われわれ」は平等に権利と義務を共有し、実際は様々な格差に囲まれながら選挙で代表権も行使する。こうした国民社会が長期の歴史を経て構築される過程に、戦争や「維新」はあった。そして、現在も絶え間なく起こる事件は、誰が代表に相応しいかという問題を中心に、国民を普段に生み出し続けている。スポーツの観戦然り、コロナ対策の各国比較然りである。
ナショナリズム研究は国際関係学の重要テーマだが、包括的な研究は十分にはなされてこなかった。日本でも韓国でも、国内の左右対立に巻き込まれ、いわゆる「戦争」「植民地」「天皇」「憲法」など、タブーや神聖なものに触れる批判を両側から浴び「泥をかぶる」からである。人格まで疑われ、どの勢力からも距離を置かれかねない。
振り返ってみれば、和解学は、必ずしも和解をダイレクトには目指さない。秩序か正義かの論争の延長に、「和解よりもまず正義を!」という主張との間の緊張を意識しながら、対話する意志の全くない社会集団、あるいは反目しあう国民の間に橋をかけ対話を促すための知的インフラたらんとするものである。
反目の根底には「我に正義あり」の態度・感情があり、正義には「法」や「権利」が絡まる。それが、歴史的記憶と一体となった「価値」で支えられる。各国民が歴史的体験の中で選び取った、平和、人権などの価値は、民主的制度を支え、国民的記憶と一体となっている。日本人にとっては「平和」と「豊かさ」という価値を根底に国際法遵守の主張が生まれるし、韓国人にとっては「自由」と「尊厳」という価値に依拠して「人権被害者」救済の主張は生まれてくる。
「平和的現状変更」はE・H・カー以来の国際関係学の大テーマであるが、韓国が求めているのは、おそらくそれである。伝統的パワーの拡大によってではない形で、「正義」の救済という論理で、平和的な現状変更を韓国の国民が実質的に求めている所に難しさがある。 (続)
補註:本文は『時の法令』に掲載されたものであり、掲載された文章との間には、微妙な校正上のずれがある場合がある。
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