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海外出張/滞在報告

アイデンティティ、エージェンシー、そして沈黙―CIES 2026を振り返って

グエン・ベト・ドゥ

2026年4月25日

早稲田大学 博士課程

CIES 2026:分断された世界における教育と平和の再検討

2026年3月28日-4月1日 カリフォルニア州サンフランシスコ NGUYEN Viet-Du

第70回比較国際教育学会(CIES)年次大会は、「分断された世界における教育と平和の再検討」というテーマを掲げて開催された。これほど時宜にかなったテーマはないと同時に、誠実に向き合うことがこれほど難しいテーマもない。この数年、私たちは世界各地で武力紛争が激化し、国際秩序が破壊され、分断が深まり、民主主義が後退していく様を目の当たりにしてきた。ユネスコ憲章の前文が述べるように――「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中にこそ平和の砦を築かなければならない」――、教育者および教育研究者は、教育それ自体が平和を育むという規範的役割を本当に果たしてこられたのかを、改めて問う必要がある。教育は中立ではない。Bush and Saltarelli が論じたように、教育には二つの顔がある――共同体どうしを分断を超えて結びつける力と、その分断をいっそう深める力である。Reimers教授は、ある会長招待シンポジウムで端的にこう述べた。国際教育が最も信頼に足る形で平和に貢献するのは、それが相互的(reciprocal)であり、現地に根ざし(locally grounded)、権力に注意を向ける(attentive to power)ときである、と。これらの条件が欠けているとき、国際教育は進歩のように見えて、実際には無関心(indifference)として機能するものを生み出しかねない。本稿では、この一週間を通じて私の中に浮かび上がってきた三つの問い――アイデンティティ、エージェンシー、そして教育にできることを究極的には制約するかもしれない沈黙――についての省察を記す。

図1:国際教育の役割に関するReimers教授のコメント

アイデンティティ

和解研究(Bar-Tal & Bennink, 2004; Kelman, 2004)から平和構築論(Lederach, 1997)に至るまで、アイデンティティは、学術界が紛争をどう理解し、持続的な平和が実際に何を必要とするかを考えるうえで中心的な概念であり続けてきた。しかし、近年の知見はより憂慮すべきものである。世界のほとんどの地域において、国民的アイデンティティと、それより広い共同体への帰属意識は、互いを強め合うのではなく、むしろ互いを押し退ける関係にある(Li et al., 2025)。そこで問われるのは、国際教育は統合的で包摂的なアイデンティティを本当に育てうるのか、ということである。CIES 2026での私自身の発表は、この問いに対して、日本にいるASEAN出身の留学生301名を対象とした調査と、その後の69名への詳細なインタビューから得られた知見をもとに答えようとしたものである。得られた結果は、希望と課題の両面を示していた。希望と言えるのは、国民的アイデンティティ、地域的アイデンティティ、そしてグローバルなアイデンティティが、互いを犠牲にすることなく共に育ちうるという事実である。調査対象の約3分の2の学生が、強い国民的アイデンティティを保ちつつ、同時にASEAN地域への帰属意識とグローバルな帰属意識をも築いているという、真に統合されたアイデンティティの在り方を示していた。これは、Li et al. (2025) が描き出した世界的な傾向を背景に置いたとき、きわめて重要な知見である。なぜならそれは、一定の条件下では国際教育が、平和教育論や和解論の研究者たちが持続可能な平和の前提条件として挙げてきた、まさにその包摂的なアイデンティティの布置を生み出しうることを示唆するからである。

しかし、この発達を実際に駆動していたのは、知識ではなく感情(feeling)であった。この知見は、平和教育研究における、より広い学問的潮流と軌を一にする。Michalinos Zembylasをはじめとする研究者たちは、この10年以上にわたって、平和のための教育は「合理主義に偏りすぎてきた」と論じてきた。すなわち、平和を、学生が知的に理解して到達するものとして扱ってきたのであり、彼らが感じ取る形で至らねばならないものとしては、十分に扱ってこなかった、ということである。会長招待シンポジウム「平和のための予防外交としての国際教育」で登壇されたRyu JungHyun Jasmine博士は、この批判をさらに国際教育の領域へと踏み込んで展開された。すなわち、国際教育はエンパシー(共感)を育てることに失敗してきたのであり、そもそもエンパシーは、この分野の目標として明示的に掲げられたことすら一度もない、と。

図2:この分野が見落としてきたものに対するRyu博士の批判

私の研究は、この批判に経験的な裏づけを与えるものとなった。ASEAN出身の留学生たちは、より広い共同体についての認知的な理解(cognitive understanding)は確実に発達させていたのに対し、実際にその共同体の一員であるという情緒的な帰属感(affective sense of belonging)は、それに遅れをとっていたのである。私はこの現象を「コンピテンス・帰属ギャップ(competence–belonging gap)」と名づけた。このギャップは、グローバル・シティズンシップ教育(GCE)がどのような枠組みで捉えられているのかという、より深い問いを私たちに突きつける。ユネスコ(2015)はグローバル・シティズンシップを「より広い共同体と共通の人間性への帰属の感覚(a sense of belonging to a broader community and common humanity)」と定義しており、情緒的な状態である「帰属」こそをその概念の中心に据えている。ところが実際には、グローバル・シティズンシップという概念は、ほぼ全面的に、知識・スキル・コンピテンシーという形で操作化されている。私はこの問題含みの枠組みを、CIES 2026の会議プログラム全体を通じてもはっきりと観察した。グローバル・シティズンシップ教育を扱うセッションは、一貫してコンピテンシー、行動、スキルを前面に押し出していた。対照的に、「belonging(帰属)」を明示的に扱うセッションは、圧倒的に地域的(local)な文脈――学校への帰属、難民の帰属、マイノリティの帰属――を論じるものであった。ユネスコ自身の定義がその中心に据えている情緒的な次元、すなわち「より広い共同体への帰属の感覚」そのものは、学術的探究の対象として取り上げられることがほとんどなかったのである。

エージェンシー

仮に学生たちがより広い共同体への真の帰属感を育てられたとしても、次なる課題が立ちはだかる。それが「エージェンシーのボトルネック(agency bottleneck)」である。この問題意識を鋭くしてくれたのが、Monisha Bajaj教授の基調講演「不安定な時代における平和教育(Peace Education in Precarious Times)」であった。Bajaj教授は、平和の条件そのものが揺らいでいる今の時代において、平和教育が育てなければならないものの中心にエージェンシーを据えるべきだと論じた。

Bajaj教授の講演は、私が現在進めている別の研究――アイデンティティの拡張が、どのように平和への志向性を育みうるかを問う研究――と深く響き合うものであった。その研究では、私は日本にいるASEAN出身の留学生における平和関連の志向性を、三つの領域に整理して辿った。すなわち、認知・省察的(cognitive-reflexive)領域(紛争や歴史的な複雑さをどう理解するか)、関係・情緒的(relational-emotional)領域(国境を越えて、友情やエンパシーを通じてどう他者とつながるか)、そしてエージェンティック(agentic)領域(平和関連の問題への積極的な関与に向けて、実際に動き出すかどうか)、の三つである。これら三つの領域の発達は一様ではなかった。認知・省察的領域が最もすんなりと育ち、関係・情緒的領域も芽生えつつあり、確かな手応えを見せていた。しかし、エージェンティックな領域は、一貫して最も弱い領域であり続けた。学生たちは自らの意思を、「できれば~したい(I would like to)」「いつか機会があれば(maybe someday)」といった条件付き・願望的な言葉で表現することが多く、それが実際の行動へと結びつくことはほとんどなかった。国際教育は、たとえ好条件の下であっても、理解と感情という次元は育てつつ、行動という次元はほぼ手つかずのまま残しているように見えた。

Bajaj (2018) の「変革的エージェンシー(transformative agency)」という概念は、その理由を理解する手がかりを与えてくれる。彼女が挙げる諸次元のうち、私のデータにおいて最も顕著に現れていたのは、彼女が「関係的エージェンシー(relational agency)」と呼ぶもの――対話や、国境を越えた友情を通じて育まれる能力――であった。しかし、ほぼ欠けていたのが「戦略的エージェンシー(strategic agency)」、すなわち、権力を分析する力、紛争がなぜ持続するのか、そしてその持続から誰が利益を得ているのかを構造的に考え抜く力である。この構造的次元が欠けているかぎり、関係的なつながりは、キャンパスの外へとはなかなか広がっていかない。これは、学生の失敗ではない。繰り返しになるが、これは設計(design)の問題である。国際教育が、平和構築に実際に貢献しうるエージェンシーを育てるためには、権力、利害、そして暴力が持続する仕組みについての問いを、率直に(openly)問える場が必要なのである。

沈黙

今回の会議で私が個人的に抱いた最も落ち着かない観察は、おそらく「沈黙」そのものに関わるものであった。会議は、アメリカ合衆国とイスラエルがイランに対する戦争を開始してからちょうど一か月後の時期に、サンフランシスコで開催された。3月28日の開会式の時点で、すでに数千人が亡くなり、数百万人が避難を強いられており、戦争はなお続いていた。にもかかわらず、この戦争は、開会の挨拶でも閉会の挨拶でも、一度も名指されることがなかった。開会式の後、一人の参加者がマイクを取り、その場にいた多くの人が明らかに考えていたことを言葉にした。会議のテーマと、この会議が開催されているまさにこの時期を考えれば、なぜ開会のいかなるスピーチにおいても、この戦争が一度も言及されないのか。私たち自身が教育者・研究者として、今起きていることを口にする声を持たないのだとしたら、私たちは学生に何を期待できるというのか、と。会場は拍手で応えた。彼女の問いが指し示していたのは、会期中、随所に見て取れるある一貫したパターンであった。私が参加したいくつかのセッションでは、発表者と討論者たちが、教室で何が言えなくなっているのかという、同じ問題に繰り返し立ち返っていた。たとえば、パレスチナに関する話題が、アメリカの学校においていかに「タブー」となっているか、というように。

これらの沈黙は、Johan Galtung (1990) のレンズを通して理解することができる。文化的暴力(cultural violence)――すなわち、直接的あるいは構造的暴力を、自然なもの、少なくとも取り立てて問題視する必要のないものに見せかける、文化のあらゆる側面――は、構造的暴力(structural violence)、すなわち社会的集団間に危害を不均等に配分する制度的取り決めと並行して作動している。両者は互いを強め合い、沈黙を生み出す。この沈黙は、心理学的な意味での「対立の回避(conflict avoidance)」ではない。それは暴力の一形態である。そうであるならば、問いはこう変わる――平和教育それ自身が、こうした暴力から自らを解き放つことができないのだとしたら、教育がそれ自身の対象とする暴力を終わらせることを、私たちはどうして期待できるのか。