投稿エッセイ
沖縄の本土復帰と和解 -国益主義でみる「平和の島」からのメッセージ-
2026年5月8日
槌谷 裕司[i]
1.はじめに
東西冷戦の真っただ中、極東の島国日本で、1972年5月、一通の政府声明が閣議決定された。「沖縄を平和の島とし、わが国とアジア大陸、東南アジア、さらにひろく太平洋圏諸国との経済的、文化的交流の新たな舞台とする」。この文書を筆者は「平和の島」声明と呼んでいる。
今日、日本政府が取り組んでいる沖縄政策は、半世紀以上前に先人が残したこの政策文書から始まるのであるが、この短いメッセージには、いわゆる沖縄問題に対する慰藉、アジアの未来への希望、日琉が共有するミッションなどが込められている。
思えば、沖縄戦では、多くの尊い人命が失われただけでなく、生活と産業の基盤が根こそぎ破壊されたことから、沖縄の経済社会は自立性を失い、戦後、米軍基地を維持するための手段として地域経済が回る軍事優先の仕組みを余儀なくされた。本土においても、52年のサンフランシスコ講和体制の下でようやく主権を回復したとはいえ、日本の経済社会全体としてみれば、沖縄の広大な区域を分離されて、まぎれもなく片肺飛行の状態であったといえる。さらに、返還前の沖縄は、東アジア地域の国際的緊張が続く中、特にベトナム戦争時に米軍の補給・出撃基地となったことから、沖縄戦による癒しがたい被害のみならず、加害に関する記憶も残された。
もちろん、日本の境界に位置する海洋都市・沖縄とアジアの境界に位置する海洋国家・日本には、地域割拠性や開放経済、文化交流の拠点性など優れた地域特性が共通しており、将来的に成長が見込まれるアジアの中で限りないポテンシャルを持つであろう。とはいうものの、東アジアにおける厳しい安全保障環境などに照らせば、沖縄を「平和の島」とする政府方針の宣言は、当時としても相当思いきったものであったにちがいない。
ここでは、戦後80年の節目に、筆者が特別研究員を務める沖縄国際大学の沖縄経済環境研究所紀要に寄稿した研究成果(「“平和の島”声明の研究」)を基に、「平和の島」声明の成り立ちとともに、沖縄を巡る日米琉の和解のかたちを主に「国益主義」(ナショナリズム)の視点から見つめ直してみたい。

2.グローバリズムと国益主義の狭間で
沖縄の本土復帰は、戦争で失った領土を話し合いで取り戻したという意味で、歴史的な「和解」であるといわれる。米国は、戦後の早い段階でこの沖縄の区域を「太平洋のキーストーン」(Keystone of the Pacific)と呼び、「長期的に保有する」(事実上の無期限保有)という沖縄政策を確立した。その理由は、朝鮮戦争を契機として、資本主義とこれに対立する共産主義イデオロギーに由来する東西冷戦構造をグローバルな現実として認識し、太平洋国家である米国と自由世界を共産主義勢力の浸透から守る「封じ込め政策」(Containment)の拠点として最も適していると考えたからである。
その後、ベトナム戦争や中ソ対立などに起因する東アジアのパワーバランスの変化に伴い、米中接近・デタント(緊張緩和)の動きが生じると、この地域において「平和共存」という価値が共有されるようになり、日米間においても、1970年の安保条約更新による「新たな日米関係」の下で沖縄の施政権の全面返還(=和解)が実現した。これにより、日琉自らが米国と「対等」に近い立場で自国を防衛する責任とともに、アジアの平和と安定に関する責任を担えるような国・地域として蘇ったというのが沖縄の本土復帰に関する筆者の理解である。
ちなみに、米国側では、この沖縄返還を認める合意について、復帰を前にした71年8月段階において、米政府内部の検討グループが中間的な事後検証を行い、「70年問題」といわれる日米安保の延長が成就したことと併せて、「我が国の軍事的地位の本質を保持し、安保条約に対する日本国民の反対の心理的基盤を弱め、自民党の維持に貢献した。」とし、基地運営コストの削減を含む安全保障上のさまざまなメリットを米国の国益の観点から積極的に評価している。その反面、日本のアジアに対する経済的関与の拡大については警戒する姿勢も同時に示している。
いずれにせよ、在沖米軍の基地機能については、日米同盟関係の進展に伴い、基本的に維持され、それが新冷戦ともいわれる今日のパワーバランスの下でも沖縄に集中する状況に変わりはない。
想像の共同体としてのネーション同士の和解は、もとより各主体の「正義」との緊張関係を孕んでいることから、一旦和解を達成したとしても、必ずしもそれが永続するとは限らず、循環的に生み出される性格のものである。
戦後の世界の現実をみても、イデオロギーに基づく政治的・経済的相互依存関係(グローバリズム)の強まりとその対極にある国益主義(ナショナリズム)の台頭の狭間で、国際社会は長きにわたって動揺してきた。これはポスト冷戦から昨今の大国間競争の時代に至るまで続いており、近年では、2022年のロシアによるウクライナ侵攻にはじまり、パレスチナ・イスラエル戦争、そして今回のイラン戦争。紛争が紛争を呼ぶ負の連鎖に陥ってしまった感がある東欧・中東の地域の事例はそのことを端的に示している。
そもそも「和解」は、それ自体が目的ではなく、一般に、当事者間でどのような価値が共有できるのかという対話の積み重ねにより成り立つといわれる。それでは、「和解」を構成し、持続可能なものとする要件は何であろうか。
沖縄の本土復帰に関していえば、70年代を迎え、ベトナム戦争などにより翳りをみせていた米国主導の「力の体系」の下で、同国が新たに「パートナーシップによる平和」(役割分担による平和)というアジェンダを打ち出し、東アジアの地域勢力均衡を目指したことをきっかけとして、先に触れたように関係諸国間で平和共存という「価値の体系」を共有できたことが大きな要因であった。
しかしながら、米国は、さらに「利益の体系」に基づく国益主義(ナショナリズム)と総合安全保障の立場から、後述するように、戦後の通貨・金融体制(ブレトン・ウッズ体制)や日米の貿易不均衡等の問題を是正し、行き過ぎた国際的相互依存関係を克服することにより自国の国力の回復を図った。日米が協調して進めた沖縄返還ではあったが、相互にこのような利害の対立軸があったことは見逃せない。

3.沖縄はダイナマイトだ!-米国の総合安全保障への転換-
先に触れたように、米国は、共産主義勢力から自由世界を守る、いわゆる「封じ込め」政策の拠点として沖縄を選んだ。
共産主義又は資本主義というイデオロギーが支配する一つの共同体が地球であると考えれば、国境を越えて経済、文化、政治などを統合しようとする、この東西冷戦も一種のグローバリズムに起因した争いといえる。これに対し、米国は、日本の政治・経済・社会を育て、発展させることにより、日本本土が赤化しないように仕向ける穏健な政策(封じ込め政策)を採用した。太平洋国家である米国としては、日本が共産主義陣営に取り込まれることを阻止するのが最優先の国益であったのだ。その反射的な利益として、日本は、戦後の自由貿易体制や朝鮮戦争特需などにも恵まれたことから、奇跡的にいち早く戦後復興を成し遂げ、「経済大国」といわれるまでに復活した。
一方、米国ではこの時期、ニクソン政権の外交・安全保障政策のブレーンを務めたキッシンジャーが、1970年代の世界を展望して、アジアの新興国のナショナリズムの動きを受け止め、世界情勢に関する認識と取組を大きく見直すことを提唱していた。
ベトナム戦争について、キッシンジャーは、「封じ込め政策」を立案したジョージ・ケナンと同様に、ベトナム人の民族主義(ナショナリズム)に基づくものであり、かならずしも共産主義イデオロギーによるものではないとみていた。特に、70年代は軍事パワーだけがものを言う世界ではなくなるという意味で国際構造の「分水嶺」になると考えた。「アメリカによる平和」(パックス・アメリカーナ)、これも一種のグローバリズムともいえるかもしれないが、米国の卓越した軍事パワーに基づき世界秩序が維持されていた時代はすでに終わりを告げ、米国民、特に若者が犠牲になったベトナム戦争の記憶と巨額の戦費による財政悪化の現実から、国益主義・自国ファーストの動きが広がっていた。
キッシンジャーは、70年代の世界を「共産主義の脅威」よりも「ナショナリズム」(地域主義)の現実に正面から向き合うべきであると考えた。世界の構造が超大国による二極体制と多極体制(地域主義化・ナショナリズム)が複合的に存在することを許容し、その上で、米国の最も深い課題は、共産主義イデオロギーに基づくグローバリズムの蔓延を防ぐことなどではなく、地域主義化した世界に秩序を確立すること、そして、これは他国のためではなく、何よりも米国民、特に若者が求める正義であるというのが彼の外交哲学であった。
このキッシンジャーの国際構造論を受けて、パートナーシップ(責任分担)による平和、これを「平和の構造」と呼び、内外に提唱したのが、ニクソンである。
「沖縄はダイナマイトだ!」
これは、60年の大統領選挙ときに、選挙の遊説ため、UCバークレー校にやってきたニクソン(当時はアイゼンハワー政権の副大統領)が、日本人留学生から沖縄について問われたときに思わず発した本音に近いコメントと思われる。その留学生とは、誰あろう沖縄の政治学者で後に西銘県政の副知事を務めた比嘉幹郎氏である。ちなみに、ニクソンは、やはり副大統領だった 53年当時、沖縄を訪問し、「沖縄の放棄はアメリカのアジア撤退と同然」とする内容の声明を公式に発表していた。
「ダイナマイト」の比喩は、「爆発的パワー」があるといった良い意味で使われることも多く、ベトナムや沖縄で民族主義(ナショナリズム)が台頭してきたことに対し、後の大統領・ニクソンが「畏怖」のようなものを感じ始めていた証左であろう。
69年1月、ニクソンが大統領職に就任すると、その翌日、さっそく対日政策の見直しにとりかかり、同年5月に方針決定する。
このときの国家安全保障会議・NSCの文書をみると米国の国益の観点から、
①アジアにおける主要なパートナー・日本の役割の拡大、
②日米安保条約を70年以降も継続、
③日本の軍事的役割の強化を求めない、といったものであった。
ニクソン政権は、69年7月、新政策として、「アジアの同盟国の独立を守る」とともに、ベトナムで起きているような紛争に巻き込まれることは避けねばならないといった基本原則(ニクソン・ドクトリン)を打ち出す。この基本原則とそれに続く沖縄返還合意(同年11月)や翌年の70年2月の「ニクソン新戦略」は、いずれも「責任分担による平和」がコンセプトであり、「パックス・アメリカーナ」の終焉と世界が分水嶺に立ったことを強烈に印象付けた。このとき、米側が考える日本などとの同盟関係は、経済的協力関係をより重視する「総合安全保障」にうつりかわっていたといってよい。
ただし、その背後には、特に日本については、米国のパートナー、あるいは対抗勢力へのカウンター・パワーとしての役割拡大には期待するものの、その一方で、(軍事)「小国」(poor little Japan)にとどめ、そのナショナリズムを刺激してアジアのパワーバランスを不安定化しかねない日本の核武装や軍事拡大については何としても避けたいとする米国の微妙な国益認識と安全保障戦略があった。
4.沖縄ネーションが求めた自立経済
同様に本土復帰に関する日琉対話についてもみてみよう。
明治期に遡れば、東アジアにおいて、日琉のネーションは、欧米の列強に対抗して「民族の自立」を求め、その安全と繁栄のために「想像の共同体」として近代的な国民国家をつくりあげた。そして特に、戦後の沖縄ネーションによる祖国復帰・自立経済への渇望と反戦平和を願った運動には、本土の人々が共鳴し、米政府関係者を畏れさせた民族主義(ナショナリズム)に近い動きが顕著にみられる。
そして、1968年11月、戦後初めて沖縄ネーションから直接選ばれた屋良朝苗を行政主席とする琉球政府が誕生した。屋良は革新系の沖縄教職員会の出身で、もともとは、本土政府に沖縄の即時無条件全面返還を訴えていたことから、当時の米側(軍部)の幹部は少なからず衝撃を受けたようだ。
しかし、行政主席に就任した屋良は、「基地経済」 からの脱却、「自立経済」への転換を図ることに精力的に取り組み、70年9月には、琉球政府が本土復帰に向けて「長期経済開発計画」を策定。同計画は、沖縄ブロックを日本経済の「南の玄関」として位置付け、アジア・米国等と本土の主要都市を結ぶ「新ネットワーク」を整備するとともに、雇用力が大きく、賃金水準が高い内陸型工業の誘致や石油精製業など新規工業の勃興などにより、第2次産業の飛躍的拡大を図っていくというものであった。
当時の沖縄経済は、生活物資の大半をアメリカからの輸入に頼り、これにより生じた貿易赤字を基地の建設や施設運営で得た住民の収入で埋め合わせるといった、生産手段の大半を収奪された悲惨な状況にあった。これを打破し「自立経済」を確立するということが、大多数の沖縄ネーションが考える正義であった。沖縄返還協定が締結された71年、琉球政府行政主席として最後となる施政方針演説においても屋良は、「郷土沖縄の存在意義に大きな価値の転換をはかる」と述べており、イデオロギー的なものというよりは、利益の体系を重視した復帰対策に尽力した。
「平和の島」というキーワードが初めて公文書に用いられたのは、71年11月、沖縄返還協定の批准を審議するいわゆる「沖縄国会」と本土政府に向けて訴えた「復帰措置に関する建議書」の中においてである。そこでは、「基地のない平和の島」とともに、沖縄の歴史的伝統(アイデンティティ)としての「平和の島」への回帰をも求めていた。この建議書の全体を通じてみると、反戦平和を求めるだけでなく、復帰を機に沖縄を軍事優先の手段的地位から脱却させ、民生優先の経済社会システムへ主体的に転換していこうとする具体策と県民意思が示されている。復帰を急ぐ屋良のねらいの重点はむしろここにあったとみてよい。
5.佐藤のアジア・太平洋新時代構想
戦後の日本は、軍事面での安全を米国との同盟関係に委ね、国力を増進して経済大国となり、民族的にも自立し、今後発展が見込まれるアジアの中で、その存在と役割を高めていこうとしていた。
特に1964年に総理に就任した佐藤は、歴代内閣の中で最も戦後処理問題に積極的に取り組み、その一環として沖縄返還に注力した。その佐藤に対しては、米国内からもこれをサポートするさまざまな動きがあったことが知られている。例えば、アメリカの駐日大使を務めたライシャワー(ハーバード大学の教授で東アジア研究の権威)は、日本の歴代政権ではタブーとなっていた沖縄の施政権全面返還を要求するよう佐藤サイドに示唆。また、ジョンソン政権末期の66年には、ベトナム戦争などにより最悪の状態となっていた日米関係の改善を訴えて大使を辞任した際に「新たな日米関係」の構築に向けた提言を米国務省などに行うとともに、67年の日米京都会議の場などを通じて日米両政府に沖縄返還の働きかけを行った。これらの努力は、ニクソン政権で日の目をみることになる。
佐藤の国家観や国際情勢認識をみると、沖縄ネーションとの一体化(共同体化)とアジアのゲートウエイである沖縄と本土との格差是正を急ぐことが国益上最重要であると考えていたことが伝わってくる。
例えば、佐藤は67年に行われた「一日内閣」の演説の中で、日本国民に向けて民族性を含む総合的な「国力」について言及し、「日本民族」が時代の変遷に適応することの重要性を説いている。具体的には、軍事力などのハードパワーにはあえて触れず、「経済力」や「文化的な伝統」といったソフトパワー・非軍事の総合力が世界を動かし、「世界の進展に寄与する」というもので、そうした構造変化のメカニズムを早い段階から言い当てているのだ。日本の総合安全保障研究は、80年の大平正芳政権において本格的に始まるといわれるが、佐藤は、ニクソン・ドクトリンが出る前にこうした総合安全保障の考え方を持ち合わせていたことが分かる。
69年には、佐藤・ニクソン会談で沖縄返還を合意。その直後に行われた米国での佐藤の演説をみると、まず、日米協調のあり方について、従属的な関係でなく、パートナーとする開かれた「新しい関係」であることが強調され、アジア・太平洋地域の「平和共存」と「繁栄」に向けて、非軍事・経済大国となった日本の経済力や技術力などをアジア・太平洋地域に役立てるといった新しいタイプの平和貢献を提唱している。
佐藤政権は、このように、沖縄ネーションの想いを受け止め、本土と沖縄の「一体化」(共同体化)を目指し、「平和の島」に向けた取組を追求していた。そのためには、佐藤がいうように、異質な文明と広範な交際を持ちながら、変化に柔軟に対応し、国内外の利害調節を効果的に行う知恵と実行力、それを裏付ける国力を養うとともに、誰にも支配されない「ネーションの自立」が必要であろう。
「平和の島」沖縄は、屋良が求める『新生沖縄』の姿であるとともに、佐藤が構想する「太平洋新時代」における超広域経済文化圏の重要な拠点であるといえる。復帰を控えた72年の国会では、与党議員の質問に答え、「沖繩が平和の島としての特性を維持しつつ発展するよう、社会資本の充実、水資源の開発、社会福祉の充実等に万全を期する」旨を答弁。復帰後の同年10月には、沖縄ブロックの開発の「基本構想」が全国計画の中で新たに位置付けられた。
こうして政府声明(閣議決定)に記された「平和の島」は、上述したように、沖縄復帰後の新生日本の平和と繁栄の姿・理想像を表したものであり、日琉双方が、国益主義の立場から、こうした方向性を共有していた証であるといえよう。
6.「パートナーシップによる平和」への対価
1971年6月に日米間で沖縄返還協定が締結されると、その直後、世界はいわゆるニクソンショックに翻弄されることになる。
その始まりは、同年7月、日本の頭越しに発表されたニクソンの訪中予告である。このときのアジアのパワーバランスの変化に則した米中接近、デタント(緊張緩和)の動きは、米国の安全保障上の利益を優先して行われたものといえる。次いで8月15日、ドルと金の兌換停止、固定相場制から変動相場制への移行、ドル切り下げ(1ドル360円から308円へ)といった一連の経済政策が発表される。戦後に作られた米国中心の国際通貨制度であるブレトンウッズ体制は、やはり米国主導でリセットされることになる。
ニクソンの新経済政策の背景には、日米の経済関係が、もはや政治的・安全保障上の関係で相互に影響を及ぼすまでになっており、日本がこれ以上経済ナショナリズム的な政策をとっていくことは、「自国や主要なパートナーであるアメリカの利益、それに国際経済システムの要求にも適っていない」とする米側の認識があった。
さらに、日本の政財界全体が、輸出競争力を手放したくないために、安い円(1ドル360円)に固定することが国益であるといった一種のドグマに陥っていたことなどの問題が指摘されている。また、当時、日米繊維戦争ともいわれた貿易摩擦・貿易不均衡問題が深刻化していたが、にも関わらず、日本の佐藤政権の対応は終始後手に回り、ニクソンは自国の産業を守るために、日本に貿易摩擦の解消・輸出制限などを力ずくで受け入れさせる措置を講ずるのである。
日本は、戦後の自由貿易体制の中で、経済運営と政治を切り離すといった自国の繁栄に有利な国際環境を享受してきた訳であるが、それはもはや過去のものとなり、ニクソンが提唱する「パートナーシップによる平和」の構造の下では許されない状況になっていたということであろう。こうした国際構造の変化を見誤った日本側の対応のまずさが、米国に日本の政策を改めさせるには力で押せばいいという考え方をうえつけたことは、将来に禍根を残したともいわれている。
しかし、この米国の総合安全保障の一環として行われたこの「ニクソン新経済政策」は、ある意味で、ポスト冷戦につながる新たな相互依存関係(グローバリズム)の始まりとなったともいえる。その後も、つながりすぎた世界の中で、それぞれの国益を脅かしかねない現象が各地で起こっている。記憶に新しいところでは、究極のグローバリズムであるパンデミックが起こると、主権国家としては、やむを得ず国境を閉ざさざるを得なくなり、地域によってはサプライチェーンの機能不全ゆえに問題が深刻化(例:マスクや半導体の不足)するなど、いつの時代にも悩みは尽きない。
沖縄の復帰から半世紀余りを経過した今日、米国のトランプ共和党政権は、2025年11月の米国の安全保障戦略(NSS)に続き、26年1月に国家防衛戦略(NSD)を発表。これら文書においては、「力(強さ)による平和」(Peace Through Strength)が強調されている。しかし、その本質は冷戦後の米国の誤った戦略により成長を許した「支配的な敵対勢力」に対抗し、AIなど産業のイノベーションの進展を踏まえた米国の製造業の復活と全般的な産業力(国力)強化、パートナー国との協力による総合安全保障・勢力均衡による抑止(単一競争国による支配の阻止)を眼目としたものであり、その源流は、やはりこのニクソン共和党政権の「パートナーシップによる平和」にあるとみて良いと思われる。
7.むすびに代えて
沖縄の本土復帰に伴う日米間の貿易不均衡問題等では苦杯をなめさせられた佐藤政権であったが、同政権が始動して間もないころに断行したケインズ政策を導入した国債発行による需要刺激などの一連の対策は、経済財政面での戦後改革として高く評価されている。
1966年1月、大阪における経済講演会で、佐藤は「もはや、これまでの財政の指導原理であつた収支均衡予算主義の原則は既にその使命を終り、これからの財政に課せられた使命は、公債政策の導入により・・・政府自ら有効需要の拡大に努める」という大胆な宣言を行った記録が残っている。講和・独立のときの国の一般会計の予算規模は1兆円であったが、66年度の予算規模4兆3100億円。この有効需要の創出により、オリンピック不況と呼ばれたスタグフレーションを克服し、日本は経済的苦境を脱した。
こうして国力を回復した日本は、日米琉の政治的和解・沖縄返還を経て、アジアの安定と繁栄に平和的な手段で貢献する名誉ある役割を本格的に担う立場を得たといえる。「平和の島」沖縄を拠点とする佐藤の「アジア・太平洋新時代構想」とその手始めとなった沖縄振興策は、その後、福田ドクトリン(77年8月)に基づく東南アジア諸国との「心と心」の文化交流・経済協力などの諸施策によって受け継がれていくことになる。
佐藤政治のモットーは「寛容と調和」であった。プラトンが理想としたのは「徳のある国家」(哲人国家)であるが、それは知恵・勇気・節制の3つの徳が国家全体に実現され、それらすべてを調和させる「正義」が支配する国家である。国家は統治者(哲人王)・護衛者(戦士)・生産者の3階級に分かれ、各階級がそれぞれの徳を発揮し、固有の職務を全うすることで、国家全体の調和と正義が実現されるとされている。
改めて半世紀以上前に発出された「平和の島」声明を読み返してみると、沖縄ネーションが希求し、本土政府がこれに応じ、米政府が共有した新たな日米琉の「和解」のかたちは、プラトンの「徳のある国家」の崇高なイメージと重なり合うように感ずるのは筆者だけであろうか。
大国間競争・新冷戦ともいわれる今日、主要国の間のパワーバランスの変化に伴って、東アジア地域のみならず国際構造全体が不透明・複雑化しているといわれる。今こそ「平和の島」声明の原点に立ち返って、かつての日米琉が達成したこうした「和解」の在り方が、時代の要請に則したかたちで、地域全体に広がっていくことを願うものである。

【参考文献・リンク】
(1) 浅野豊美(2025)「1970年代の経済協力施策の転換と“心”をめぐる国民記憶」 (『歴史学研究』No.1057) 1-15頁。
(2) 江上能義(2025)「比嘉幹郎博士(政治学)の研究と活動そして出会った人々」(沖縄国際大学 沖縄法政研究所)、18頁。s
(3) エドウィン.O.ライシャワー (1982) 『日本への自叙伝』(NHK出版)、395-405頁。
(4)内閣官房(1969)「政府声明」国立公文書館所蔵 平11総01744100国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/item/1343354.html
(5) 琉球政府渉外課(1971)「復帰措置に関する建議書」沖縄県公文書館所蔵 R00001217B
https://www.archives.pref.okinawa.jp/wp-content/uploads/R00001217B-1-1.pdf
(6) 槌谷裕司(2026)「“平和の島”声明の研究―国益主義ファクターで見る沖縄の本土復帰―」(沖縄国際大学 沖縄経済環境研究所 『経済環境研究』Vol.15)、39-51頁。https://okiu1972.repo.nii.ac.jp/records/2000350
[i]槌谷裕司(つちや ゆうじ) 国立公文書館 公文書アドバイザー、沖縄国際大学沖縄経済環境研究所 特別研究員、早稲田大学国際和解学研究所 招聘研究員、yuji.tsuchiya.a0q@archives.go.jp