キプロスで開催されたIARS大会に参加し、日本におけるASEAN諸国出身学生を対象とした「アイデンティティの拡張と平和への志向性の発達」に関する論文を報告しました。報告に対して聴衆と有意義な議論を交わすことができたばかりでなく、キプロス問題への理解を深めることを通じて、和解について多くを学ぶ機会ともなりました。
報告の概要
本論文は、長年にわたり学生の国際移動を静かに正当化してきた一つの前提――すなわち「国際教育は平和を促進する」という前提――から出発します。世界各地の交換留学制度や奨学金制度を支えてきたこの長年の信念は、異文化間の接触が視野を広げ、国家間の境界を和らげる、というものです。魅力的な考えではあります。しかし同時に、私が論じるところでは、十分に検証されてこなかった前提でもあります。留学に関する研究の多くは、学業成果・キャリア上の成果・異文化適応能力を測定するにとどまり、平和に関わる成果そのものを直接に扱うことはまれでした。
この空白を埋めるため、私は一つのメカニズムを提起しました。それが「アイデンティティの拡張(identity expansion)」――自己の「われわれ(we)」という感覚を国家の枠を越えて、地域的・地球的といったより広い共同体へと拡げていくこと――です。混合研究法(301名への調査と69名への面接、ASEAN全10か国を対象)に基づき、日本での国際教育を通じてアイデンティティがどのように発達するのか、またその過程でいかなる平和への志向性が生じるのかを検討しました。分析の出発点としては、Kelmanが和解において示した三つの認識の変化(他者・自己・関係性に関する認識の変化)を用いました。
得られた知見は、この前提を確証するというよりも、むしろ複雑化するものでした。学生たちは確かに、国民的な帰属を犠牲にすることなく帰属の感覚を拡張していました。それどころか、両者は相互に強化し合うことさえありました。しかし、拡張それ自体は、平和志向的な成果がいかに発達するかをほとんど説明しませんでした。重要だったのは、その拡張の「質」です。より広い共同体を真に情動的に取り込んだ学生は平和に関わる志向性を発達させた一方、地球的帰属の言葉をキャリア上の資産として採り入れたにすぎない学生や、頭では理解しても情動を伴わなかった学生は、そうした志向性を発達させませんでした。志向性それ自体も、不均等に発達していました。理解は容易に立ち現れます。たとえば学生たちは、自国の物語(ナラティブ)を驚くほど率直に問い直すことができました。他方で帰属は、単なる接触ではなく、深く意味のある出会いを通じて、条件つきで発達していました。そして最後に、行動への関与(コミットメント)が生じることはまれで、生じたとしてもわずかでした。この「主体性のボトルネック(agentic bottleneck)」こそが最も根強く、他の条件が良好であっても、数年にわたる滞在を経た学生においてすら残り続けました。結論として、国際教育は個々の学生において平和への「準備状態(readiness)」を育み始めることはできる、と私は考えます。しかし、この準備状態を社会全体に及ぶ効果へと転じるためには、教室の外にある支援的な構造が必要となるでしょう。
質疑応答と討議
最も貴重な応答は、Karina Korostelina教授から寄せられました。教授の二つのコメントは、いずれも私の議論の弱い点を的確に突くものでした。第一のコメントは、「主体性のボトルネック」という知見に関わるものです。私はこの障壁を、構造的支援――ネットワークやプラットフォーム、あるいは個人の変化を外部へと伝えていく「回路(circuitry)」――の欠如に帰していました。これに対して教授は、そうした構造がなくとも、集合的に行動する力は別の経路を通じて伝達されうるのではないか、と問い返されました。教授の論点は、個人から集合へと架かる橋は構造的であるだけでなく心理的でもあり、そこでは「自己効力感(self-efficacy)」――自らの行動が意味を持ちうるという信念――が中心的な役割を果たす、というものでした。この指摘は、van Zomerenらの研究(2008)と強く響き合います。私自身、論文中でこの研究を参照しながらも、詳細には論じていませんでした。私のデータもまた、同じ力学を直接に記録しています。ある学生は「奨学生であってさえ、私は無力だと感じる」と述べています。この示唆に富むコメントは、今後の改稿において考察の章を豊かにしてくれるはずです。
第二の質問は、アイデンティティが実際にはどのように変化するのか、という点に関わるものであり、私の考察を豊かにしうる一つの用語――「反照的アイデンティティ(reflected / reflective identity)」――を提示してくれました。Korostelina(2007)の枠組みは、私の研究における二つの知見を説明するうえで有用です。第一は、学生たちが示した批判的な内省です。すなわち、自国のアイデンティティを検討の俎上に載せる能力(「われわれはいつまでも被害者でいることはできない」)です。これは私が「認知的‐再帰的志向性(cognitive-reflexive orientation)」と呼んだものであり、Korostelinaのいう「反照的」形態のアイデンティティ――対立的な「われわれ‐かれら(We–They)」の図式へと動員(mobilize)されるのではなく、自己自身へと向き直り、検討されるアイデンティティ――と密接に対応します。第二は、アイデンティティの拡張それ自体です。ここで反照的形態は、一つのメカニズムを示唆します。動員された対立的な形態で保持された国民的アイデンティティは拡張の余地をほとんど持たないのに対し、反照的に保持されたアイデンティティは、より広い脱国民的(postnational)な共同体へと拡張しうる、というものです。これは、「アイデンティティの観点から見て『地球市民(global citizen)』なるものは存在するのか」を問う私の博士研究に直接つながります。言い換えれば、内省(reflection)こそが、国民的アイデンティティを地球的なものへと拡張させる一つの経路となりうるのかもしれません。
キプロスからの学び
キプロスで開催されたIARS 2026は、知的にも、文化的にも、そして個人的にも、他に類を見ない経験となりました。大会の期間中、私は分断された都市の内に身を置き、文字どおり「向こう側」の人々を目にすることができました。ニコシアは、分断社会をめぐる比喩ではなく、その物理的な事実そのものです。そしてそれは、私自身に個人的に迫ってくるものでした。ベトナム人である私たちもまた、かつては領土によって、イデオロギーによって分断されていました。その分断は、地図の上にはもはや現れないとしても、なお感じ取ることができます。緩衝地帯(バッファーゾーン)に立ったとき、私は他人の紛争を眺める一介の観察者ではありませんでした。
キプロスから最も多くを学んだのは、二つのセッションからでした。第一は、和平プロセスの設計を問い直すラウンドテーブルであり、和解というものがいかに複雑であるかを痛感させ、紛争解決・和解・研究に対する新たなアプローチと方法の必要性を示唆するものでした。第二は、両コミュニティの元首席交渉官――Özdil Nami氏とAndreas Mavroyiannis氏――を招いたハイレベル・パネルでした。ここから私は、和解が「トップダウン」と「ボトムアップ」双方の努力を同時に要求すること、そして、いかなる合意が成立するにも、指導者と人々とが何とかして同じものを見るに至らねばならないことを学びました。キプロス問題が未解決であり、近い将来に解決される見通しも立っていないにもかかわらず、両氏の語りに耳を傾けることは、頻繁な接触と対話こそが和解の過程において不可欠であることを示す、いわば生きた証言として、実に示唆に富むものでした。
和解学一般について、またとりわけキプロスの文脈について、幾日にもわたる報告と議論を振り返るなかで、一つのことが心に浮かびました。すなわち、和解と平和構築の過程は、固定された順序(シークエンス)に従うものではない、ということです。Nadlerの枠組みでは、社会情動的な和解は道具的な段階の後に続くものであり、和解は和解合意(settlement)の後に訪れます。しかしキプロスは、この順序には従っていないように見えます。ここでは、和解はむしろ先に来る必要があるのかもしれません――あるいは少なくとも、いまだ未解決の紛争と並行して始まる必要があるのかもしれません。結局のところ、キプロス問題は、ギリシャ系とトルコ系のキプロス人が互いに和解し始めて初めて解決されうるのかもしれません。これはまさに、Leinerの「ヘルダーリン的視座(Hölderlin perspective)」の背後にある直観であり、この視座は、和解を紛争の「後」にのみ位置づけるのではなく、紛争の「只中」に位置づけるものです。
