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2026 キプロス 国際和解学会

分断都市ニコシアを訪問して――IARS Cyprus 2026 参加記

富塚あや子

一橋大学国際公共政策大学院 非常勤講師

2026年6月19日から22日にかけて、キプロスのニコシアで開催された国際和解学会(International Association for Reconciliation Studies: IARS)第7回年次大会に参加し、初日に研究発表を行った。本稿では、研究発表の概要に加え、学会参加とニコシア滞在から得た学びを報告したい。

1.研究発表の概要

発表題目は「The “Japanese” Who Remained in Vietnam after 1945, and Their Families: How They Were Silenced — and How That Silence Was Partly Unsilenced」とした。第二次世界大戦後もベトナムにとどまった「日本人」とその家族は、歴史のなかでいかに沈黙させられ、その沈黙はいかに部分的に解かれたのか。これが発表の問いである。「日本人」に引用符を付したのは、そのなかに朝鮮半島や台湾から動員された植民地出身者が含まれるからである。

残留「日本人」は700~800名いたとされ、そのうち600名程度がベトミン(ベトナム独立同盟)に協力してベトナムの独立戦争に参加したといわれる。ほとんどは男性で、ベトナム人女性と結婚して家族を持った者も多かった。これらの家族の経験は多様であり、ひとくくりに語ることはできないが、今回の発表では、対照的な二つの類型を取り上げた。それが、1954年に父と引き裂かれた北部の家族と、南部へ移動した後1978年以降にベトナムから引き剥がされた家族である。

1954年7月、ジュネーヴ協定が締結され、インドシナ戦争は停戦した。役割を終えた「日本人」は、ベトナム側から促され、1954年から1961年にかけて帰国した。このうち、1954年の第一次帰国者は、ベトナム人家族を同行させることが許されなかった。このとき単身で帰国した65名のうち、ベトナムに家族を残していた者が何名いたのかは定かではない。しかし、少なくない数の家族が父と引き裂かれ、ベトナム北部に残されたと考えられる。

一方で、日本に帰国せずに、家族とともにベトナム南部に移住した者もいた。1954年のジュネーヴ協定は北緯17度線を暫定的な軍事境界線とし、ベトナム民主共和国軍は北部、フランス連合軍は南部に集結するよう定めた。集結が完了するまでの間、民間人にも希望する側へ移り住むことが認められていた。この期間を利用して南部に移住した残留「日本人」とその家族は、ベトナム共和国(南ベトナム)でベトナム戦争を生き抜いた。約20年後の1975年に戦争が終結し、翌年北ベトナム主導で統一が達成されると、「日本人」家族は帰国を余儀なくされ、1978年以降ベトナム人妻やベトナムで生まれ育った子どもたちも日本へ「帰国」することになった。以上のように、北部の家族は父と引き裂かれてベトナムに残り、南部の家族はベトナムから引き剥がされて日本へ渡ったのである。

発表では、Michel-Rolph Trouillotの議論——権力は、記録・アーカイブ・ナラティブ・歴史という歴史生産の四つの契機に入り込み、歴史を「沈黙させる(silencing)」——を参照し、北部の家族と南部の家族の対照的な経験が、ベトナムの国民的物語や日越の二国間関係史のなかで共に沈黙させられた経緯を跡付けた。

ところが、近年その沈黙は部分的に解かれつつある。2017年3月、日本の天皇皇后両陛下(当時)がベトナムを訪問し、北部の「引き裂かれた家族」と面会した。北部の家族に関しては、沈黙が破られ(Unsilenced)つつある。しかし、南部の家族の沈黙は、手つかずのまま残されている。沈黙を破る行為が非対称を生んでいるのである。以上が発表の要旨である。

質疑では、正式な記録の対象とならなかった人びとについても、法務当局の犯罪記録のような、なんらかの記録が残っているのではないか、というコメントをいただいた。沈黙させられたことに意味を見出すだけでなく、史料を渉猟し性格の異なるさまざまな記録からかれらの足跡をたどることにも取り組んでいきたい。今後の調査への示唆に富むコメントに感謝したい。

2.学会参加とニコシア滞在からの学び

①統一への希求と「時間」

ある発表の質疑応答において、朝鮮半島とキプロスの分断が比較される場面があった。両者の異同はさまざまに論じられたが、聞きながら私の頭に浮かんだのは、双方に共通する、分断から経過した「時間」の長さであった。朝鮮半島の分断は既に70年を超え、キプロスの分断も半世紀に及んでいる。

ベトナムの場合、1954年に決定づけられた南北の分断は、1976年の統一まで、20年余りだった。日本の敗戦とベトナムの独立宣言から数えても、約30年。分断期のベトナムには、北と南に引き裂かれた家族が多くいた。統一は単なる政治的お題目ではなく、離れ離れになった肉親と再び会うことへの、人びとの切実な願いでもあった。

ベトナムの事例だけを見ていると、この切実さを自明のものと捉えてしまいがちである。しかし、境界の向こうに肉親がいる、故郷がある、という実感は、世代とともに薄れていく。分断が「消極的平和(negative peace)」として定着し、世代が移ってしまえば、人びとのレベルでの統一への希求を呼び起こすことは、格段に難しくなる。分断後の「時間」の重みに改めて気付かされた。

②和解の実践としての「人と人」との信頼関係構築

キプロスは、現在進行形で分断後の「時間」が経過している現場である。実際に、限られた時間で私が街中で言葉を交わすことのできた人びとは、分断を所与の現実として受け入れているようにみえた。

その一方で、IARS Cyprus 2026の会場では、和解を模索するキプロスの人びとに多く出会った。

学会初日の基調討論では、ギリシャ系コミュニティとトルコ系コミュニティ両方の首席交渉官(Chief Negotiators)が共に壇上に上がった。討論の内容もさることながら、お互いをカウンターパートとして、そして友人として信頼している様子が強く印象に残った。

両コミュニティのメンバーが所属する市民合唱団は、キプロスの伝統的な楽曲を、ギリシャ語とトルコ語の両方で歌った。元々、同じメロディに、両言語で歌詞が存在するのだという。かれらが最後に歌ったオリジナル曲は、「We are islanders」というタイトルだった。合唱の後、舞台から降りたかれらに話しかけると、メンバーの1人から、「私たちが歌っているのを見ていて、誰がギリシャ系で誰がトルコ系かなんてわからなかったでしょう?私たちはみんなキプロス人なんだから」と言われた。かれらは「Cypriotness(キプロス人らしさ)」があるのだ、と語っていた。

キプロス行方不明者委員会(Committee on Missing Persons in Cyprus:CMP)のセッションでは、両コミュニティの考古学者、法医学者、心理学者たちが集い、紛争による行方不明者の遺骨を発掘し、鑑定し、調査結果を家族に報告する活動が紹介された。かれらは、コミュニティを越えた協業に困難はないとして、「我々はフィールドの同僚(field colleagues)だから、時には言葉を交わす必要すらない」と語っていた。

これらの人びとの活動を目の当たりにし、実際に話を聞いたことで、「時間」によって分断が固定化されていくなかで、集団の境界を越えて「人と人」との信頼関係を構築するプロセスは、消極的な現状肯定に対抗する和解の実践なのだ、と感じた。

街中で言葉を交わした人びとと会場で出会った人びととの間に感じた温度差が今後どのような展開をたどるのか、キプロスの人びとの選択を注視していきたい。

以上が、IARS Cyprus 2026への参加報告である。最後に、大会運営に携わられた皆さま、貴重な機会を与えてくださったすべての関係者に、心から御礼申し上げたい。

写真1:ニコシア旧市街のコーヒーショップのキーホルダー。キーホルダーの形は、ニコシア旧市街の城壁をかたどった円形。中央に描かれているのはキプロス島全土。

写真2:南側の街頭案内板に掲示されたニコシア旧市街の地図。情報が詰まった南側と、「Area under Turkish occupation since 1974」とのみ書かれた北側との対比が印象的。

写真3:北側の街頭案内板に掲示されたニコシア旧市街の地図。写真2と写真3の地図では、円形の旧市街が断ち切られ、全体像を捉えることができない。

【参考文献】

Trouillot, Michel-Rolph. Silencing the Past: Power and the Production of History. 20th anniversary ed. Boston: Beacon Press, 2015. (Originally published in 1995).

古田元夫「残留日本人の日本帰国の背景」小松みゆき『動きだした時計――ベトナム残留日本兵とその家族』めこん、2020年、217–229ページ。