ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2026 キプロス 国際和解学会

キプロス大会 参加記

重松 尚

明治学院大学・日本学術振興会 特別研究員CPD

2026年6月19日から22日にかけてキプロスのニコシアで開催された国際和解学会(International Association for Reconciliation Studies: IARS)の第7回年次大会に参加した。今回の学会はキプロス、とりわけニコシアで開かれたため、和解というテーマはかなり具体的に感じられた。分断都市ニコシアにおいて、国連管理下の Buffer Zone は実際の都市空間の一部となっており、人々は検問所を通じて南北を日常的に往来している。そのこともあり、学会の最初から、和解とは政治的合意だけの問題ではなく、場所や記憶、日常生活とも関わるものなのだと感じた。

私の発表タイトルは “Remembering One’s Own ‘Genocide’ in the Homeland: Lithuanian Collective Memory in the Diaspora” であった。本発表では、冷戦期のアメリカにおけるリトアニア系ディアスポラが、ソ連によるリトアニア人の強制移送や政治的抑圧をどのように「ジェノサイド」として表象したのかを検討した。また、その記憶の枠組みが、のちにポスト・ソヴェト時代のリトアニアの集合的記憶とどのように結びついたのかについても論じた。

発表で中心的に扱ったのは、1950年代から1970年代にかけて在米リトアニア人団体が開催した「ジェノサイド展」である。この展示では、写真、文書、地図、解説文などを用いて、ソ連支配下のリトアニア人の苦難が示された。ただし、私が発表で強調したかったのは、これらの展示が単なる追悼の場ではなかったという点である。それは冷戦政治とも深く結びついていた。1970年にはシカゴで大規模な展示が開催され、ジェラルド・フォード下院議員(のちの大統領)が演説を行った。フォードはその中で、ソ連支配下のリトアニア人の苦難をヴェトナム戦争と結びつけた。当時、反戦運動の側では、米国のヴェトナムでの行動を「ジェノサイド」と批判する声があった。これに対してフォードをはじめとする有力政治家やリトアニア系アメリカ人団体は、その議論を反転させ、ジェノサイドの真の原因は共産主義であると主張した。このように、リトアニアにおけるソ連暴力の記憶は、米国の反共主義政治とも結びついていた。

自らの苦難を認めてもらうことは、和解にとって重要でありうる。しかし同時に、ある共同体が過去をほとんど自らの犠牲者性だけによって記憶する場合、他者の苦難を認識する余地が狭まる可能性もある。リトアニア人ディアスポラの事例は、祖国の外部で形成された記憶言説が、のちにリトアニアへ戻り、ソ連支配の記憶のあり方に影響を与えたことを示している。

質疑応答では、とくに有益なコメントと質問を受けた。第一に、私の発表は東欧、北米、東南アジアをつなぐものであり、グローバルヒストリーの事例として興味深いというコメントである。この指摘はありがたかった。私が示したかったのも、まさにその点だったからである。ソ連による「ジェノサイド」をめぐるリトアニア人の言説は、リトアニア一国史の内部だけで作られたものではない。それは亡命地で形成され、ディアスポラ組織を通じて広がり、アメリカ政治の言葉の中に入り込み、さらにはベトナム戦争とも結びついていた。

第二に、私の研究を和解の問題に結びつける場合、リトアニアとロシアという国家間の和解を考えるべきなのか、それともリトアニア国内のリトアニア系住民とロシア語系住民の和解を考えるべきなのか、という質問を受けた。私は、どちらのレベルも重要だが、両者は分けて考える必要があると答えた。ソ連支配の記憶は、たしかにリトアニアとロシアの関係と切り離せない。しかし同時に、リトアニア社会の内部で、さまざまな集団が公的記憶、教育、博物館展示のなかでどのように位置づけられているのかを見る必要もある。この質問を受けて、リトアニアの事例で「和解」と言うとき、それが具体的に何を意味するのかを、もっと丁寧に考える必要があると感じた。

学会終了後、リトアニアへ帰国する日に、ラルナカから車で約20分のところにあるピラという村を訪れた。ピラは国連のBuffer Zone内に位置し、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人が共住する村として知られている。和解をテーマとする学会に参加した直後だったので、この場所を実際に見ておきたいと思った。

印象に残ったのは、ピラが単純に「和解の象徴」と呼べるような場所ではなかったことである。見たところ、そこは普通の村でもあった。住宅があり、店があり、道路があり、人びとは日常生活を送っていた。しかし同時に、そこがBuffer Zone内にあるという事実は、その共存が非常に特殊な政治的条件のもとにあることを示している。この二重性が印象的であった。

【写真1】

キプロスにはかつて、Bixi Cola や Bel Colaなど、さまざまな清涼飲料メーカーが存在していた。しかし1980年代半ば、ペプシやコカ・コーラといった多国籍企業がキプロス市場に参入し、不公正な競争や贈賄、独占販売契約などを通じて、多くの地元清涼飲料メーカーを廃業に追い込んだ。それでもなお、スーパー・コーラ社の飲料(写真)は、今でも北キプロスのキオスクで販売されている。

【写真2】

北ニコシアの Samanbahçe 地区にある歴史的住宅群。ニコシア市内における住宅需要に応えるために20世紀初頭にオスマン当局によって開始された、キプロス初の社会住宅計画として知られる。72戸の住宅で構成されており、いずれも地元の建材を用い、島の気候条件を十分に考慮して建設された。