2026年6月、ニコシア大学で開催された国際和解学会(IARS)年次大会に参加したことは、私の研究生活において忘れがたい節目となった。まず、このような貴重な機会を与えてくださったプロジェクトリーダーの浅野豊美先生、シニアフェローの皆様、運営を支えてくださったすべての関係者の皆様に、心より御礼申し上げる。
まずは、私の発表内容について簡単に概要を説明したい。私の発表タイトルは「『許し』の政治学:後期英領ケニアにおける反植民地主義運動と道徳再武装運動(MRA)」である。本研究は、「和解」や「許し」という普遍的かつ道徳的な語彙が、いかに政治権力や支配構造の維持に加担し得るかという問題を、1950年代のケニアにおけるマウマウ蜂起の鎮圧と日本人MRA活動家を事例に批判的に検証したものである。
1930年代に米国でキリスト教的な道徳運動として始まったMolar ReArmament(以下、MRA)は、冷戦期に入ると反共主義イデオロギーと深く結びつき、世界規模のネットワークを展開した。彼らは「絶対的な正直、純潔、無私、愛」という四つの絶対基準を掲げ、階級闘争や民族独立運動といった「政治的解決」を否定した。代わりに彼らが強調したのは「個人の内面の変革」であり、他者や他民族との和解に先立って、まず個人が内面的に「許す」ことが不可欠であると主張した。
1955年には、原爆被爆者を含む日本のMRA活動家たちが世界巡回ツアーの一環としてケニアを訪れた。当時、イギリス植民地政府はマウマウ蜂起に関わった数万人規模のケニア人を強制収容所に拘留し、彼らの思想を転向させるための「リハビリテーション・プログラム」を進めていた。植民地政府は、日本人を含むMRAの活動家たちを収容所に招き入れ、拘留者に対する説得プログラムを委託したのである。
このプログラムの核心にあったのが、戦後日本というフィルターを通じて再パッケージ化された「許しのテンプレート」であった。元拘留者であるモハメド・マズ氏の回顧録によれば、日本の女性活動家が登壇し、広島への原爆投下後にアメリカに対して抱いた激しい怒りや怨恨を、MRAが掲げる「愛」によっていかに克服したかを涙ながらに語ったという。そしてケニアの聴衆に対し、「これと全く同じ兄弟愛が、ヨーロッパ人入植者とケニア人の間の亀裂をも癒やすことができる」と、説いたという。マズ氏は、強い違和感を覚えつつも、その語りが持つ感情的な力に激しく心を揺さぶられたという。
この「許しの政治学」は、1963年のケニア独立によって終焉を迎えたわけではない。むしろ、ポストコロニアル国家の建設を急ぐジョモ・ケニヤッタ初代大統領によって、公式スローガン「許して忘れよう(Let us forgive and forget)」として制度的に継承された。それは、国内の政治的安定を確保し、西側諸国からの投資や外国援助を呼び込むための「安定のパフォーマンス」であり、植民地時代から続く構造的不平等を覆い隠すための高度な統治技術であった。
以上が発表内容の概要である。この発表を通じて頂いたのは、「より強固な議論への発展」という視点、および「現代のMRAの動向」に関する問いであった。これらは、歴史を単なる過去の記録に留めず、現代社会への実践的なアプローチへと繋ぐことの重要性を指摘するものであろう。これまでの私の分析は1950年代・60年代の歴史的記述が中心であり、当時の統治の言説が現代の制度や国際社会のなかにどのように形を変えて息づいているのかという、「現代の当事者性」へ向けた架け橋をさらに太くしていく必要性を見出すことができた。
聴衆の皆様が関心を寄せてくださったのは、かつて「統治の技術」として機能した和解の語彙が、現代の国際秩序や地域分断のなかでどのように機能し直されているのか、あるいは現代の平和構築団体がその歴史的な課題にどう向き合っているのかという重層的な視点であった。
また、こうした視点は、学会場の外に広がるニコシアの街を歩く中で、強烈なリアリティをもって立ち現れた。市の博物館を訪れた際、イギリス統治時代にニコシア自治体によって発行された公共馬車の運賃表や、当時の出生登録簿の表紙を目にした。そこには、英語、ギリシャ語、そしてアラビア文字表記のトルコ語という3つの言語が克明に併記されていた。
【写真1】

写真1:イギリス統治時代の1907年にニコシア自治体(Municipality of Nicosia)によって発行された公共馬車の運賃表(Tariff of Fares for Public Carriages)。英語、ギリシャ語、アラビア文字表記のトルコ語の3言語で記載されている。
【写真2】

写真2:イギリス統治時代のキプロスにおける出生登録簿の表紙。こちらも同様に3言語で記載されている。
生活や行政に直結する公文書にこれら3言語が並置されている様式は、一見すると、私がこれまでケニアのアーカイブで調査してきたアフリカ人学校のシラバス(英語、スワヒリ語、キクユ語の3言語併置)を思い起こさせ、非常に馴染み深いものに感じられた。しかし、その背後にある「言語間の構造的格差」に思考を巡らせたとき、「英領統治」と一口では括れない統治技術の決定的な差異と多様性に直面することになった。
ケニアにおける3言語の並置は、すなわち、アフリカ人の知的階層の台頭を抑制し、地域社会を分断・管理するために、あえてキクユ語などの現地のローカルな言語を教育現場で優先的に囲い込むという「歪な格差」を内包したものであった。そのため、ケニアにおいて行政の基幹文書にアフリカのローカル言語が表記されることなどまずあり得なかった。他方で、ローカル言語で出版されるものといえば、聖書や平易な教科書といったものばかりであった。一方で、キプロスの運賃表や登録簿にみられる3言語表記は、大英帝国が地中海の複雑な地政学的現実と既存の言語共同体のプレゼンスを統治構造のなかに直接組み込まざるを得なかった事実を示している。つまり、公文書における言語の現れ方の違いは、帝国支配の言語インフラが地域ごとにいかに異なる言語間の格差とヘゲモニーの傾斜を孕んでいたかを雄弁に物語っていた。
しかし、現在のキプロスが示す現実は、この歴史的な言語の格差をさらに超える深い示唆を私に与えてくれた。現地の市民合唱団が、トルコ語、ギリシャ語、英語の3つの言語で歌い上げる姿を目の当たりにしたのである。
【写真3】

写真3:ニコシア市内で活動する市民合唱団。歴史的分断を乗り越え、3つの言語で歌声を響かせている。
ここでの英語は、もはや単なる植民地支配の抑圧的な亡霊ではない。それはかつて衝突した二つのコミュニティの言語と対等に並び立ち、草の根の対話と芸術的表現のための「共有された実用的な道具」へと再定義されていた。
3つの言語で歌うことを通じて、イギリス統治の傷跡とギリシャ・トルコ間の深い分断の歴史を能動的に引き受けながら、かつての支配の言語や行政の道具であった語彙をも巻き込んで、現代における新しい「地続きの共存の空間」をたゆまなく交渉し続けていた。
今回の学会やキプロスの市民からの示唆を経て、私は本研究の核となる歴史分析をさらに深化させ、東アフリカ史研究の権威ある国際学術誌である Journal of Eastern African Studies への投稿を目指して、論文の精緻化を進めていく決意を新たにできた。客観的で直線的な実証を求める論文の枠組みを追求しながらも、そこからさらに一歩踏み込み、自らの経験と重ね合わせて紡ぎ出す言葉のなかにこそ、研究者が歴史の教訓と現代の生きた現実の交差点に立つ意義があると感じている。
言葉が国境を越えて旅した軌跡を追うことは、平和構築が単なる抽象的な道徳ではなく、常に具体的な社会のなかで紡がれるダイナミックな交渉のプロセスであるという真実を教えてくれる。ケニアの歴史が残した深い問いかけを、今もキプロスで響く力強い多言語のハーモニーと共鳴させながら、これからも未来へ向けた終わりのない対話を紡いでいきたいと強く思う。