2026年6月19日から22日にわたって、キプロスのニコシアで開催された国際和解学会第7回年次大会に参加した。本大会で掲げられたテーマは「平和への道:理論と実践における和解(Paths Toward Peace: Reconciliation in Theory and Practice)」であった。本大会では、そのテーマに違わず、多様な背景をもつ研究者たちによって、それぞれ理論と実践の観点から和解あるいは平和を検討する研究発表がおこなわれていた。本大会は、まさに和解への複数の道(paths)が模索される知的現場であったと言えるだろう。
私の研究発表は、「足場を築く:和解学の理論的・哲学的議論(Building the Scaffolding: Theoretical and Philosophical Discussions of Reconciliation Studies)」と題されたパネルに組み込まれていた。このパネルには、主として和解について理論的に検討する発表や、和解学というディシプリンの理論的基礎づけについて検討する発表が集められていた。
私の発表のタイトルは、「ネクロポリティクスの時代における和解:フランツ・ファノン、アシル・ンベンベ、ジュディス・バトラーを導きとして(Reconciliation in the Age of Necropolitics: Guided by Frantz Fanon, Achille Mbembe and Judith Butler)」であった。この発表の特徴は、大きくわけて三つある。第一に、ポスト構造主義哲学の観点から和解の可能性について検討したこと。第二に、アシル・ンベンベの「ネクロポリティクス」の概念を用いつつ、それが現代において支配的な新自由主義的統治のコアとなる権力の形態であると論じたこと。第三に、その権力がいかに和解の障害となるのか、そしてその権力にいかにして抵抗するのかを論じたこと、である。
ポスト構造主義哲学の観点から見れば、主体およびその心的生は、主体が権力を内面化し、それに服従することによって形成される、という立場をとる(佐藤, 2008)。すなわち、主体のありかた、そしてその心的生のありかたは、権力のありかたに、「完全に」とまでは言えなくともかなりの程度規定される、ということだ。それゆえ、いかにして人口集団の分断を停止させ、和解にいたらしめるのかを考えるためには、私たちがいかなる形態の権力を内面化し、それに服従しているのかを問う必要がある。
そこで私は、ンベンベを参照することで、現代において特徴的な権力のありかたとして、「ネクロポリティクス」を提示した。これは、ミシェル・フーコーの「生権力」(人間を労働力として生かし、その搾取を最大化する権力)との対比のなかで考案された概念であり、現代の権力がもはや「生かす」ことを目的とすることなく、「殺す」ことを第一の目的としていることを示すものである。この形態の権力は、人口集団を、生きるに値する生と廃棄可能な生に分割し、後者を殺すことを積極的に肯定する(Mbembe, 2019)。
次いで私は、このネクロポリティクスが、現代において支配的な統治形態である新自由主義的統治のなかに見られることを示した。フーコーやその解釈者たちが示すように、新自由主義的統治においては、ひとびとは「自己自身の企業家」としてセルフ・マネージメントをおこなう主体として主体化することを強いられる(Foucault, 2004; Read, 2009; Butler, 2015; 佐藤, 2026)。そして、その主体化に失敗するものたちは、自己責任の論理のもとに、排除・収奪される。私はここに、人口集団を、生きるに値する生と廃棄可能な生に分割するネクロポリティクスの作動を見て取った。
バトラー(2015)によれば、私たちの生は相互依存関係のなかでのみ可能となっているが、しかしそれにもかかわらず新自由主義的統治は、私たちを自己責任の論理に服従させ、そしてその相互依存関係を破壊し、人口集団の分断を深めていく。では、このような新自由主義的統治、およびその核心で作動するネクロポリティクスに抵抗し、和解の主体となるためには、どのようにすればよいのだろうか。本発表において私は、ンベンベ(2022)とバトラー(2015)から次のような提案を引き出した。すなわち、私たちの生の条件である相互依存性を露わにすることによって、ネクロポリティクスに抗して和解の主体の形成が可能になる、というものである。そして本発表の最後には、今後の展望として、フランツ・ファノンの精神科医としての臨床実践を、和解的実践として再解釈できないか、という提案をおこなった。すなわち、ファノンは、その臨床において、ネクロポリティクスによる人口集団の分割によって感知できなくなってしまう他者の苦しみを積極的に感受しようと試みており、それは他者との相互依存性を再構築しようとする試みとして読むことができるのではないか、という提案である。
本発表に対して、質疑応答では、ネクロポリティクスの具体的な事例はどのようものか、という質問をいただいた。それに対して私は次のように返答した。もちろん爆撃などといった大規模な殺害行為もネクロポリティクスの発現形態のひとつではあるが、しかしネクロポリティクスは「特別」な事象などではなく、よりミクロで日常的なレベルでのヘイト・スピーチやレイシャル・プロファイリングなども、その発現形態のなかに数え入れることができる、と。この質問を受けて、現代においてネクロポリティクスが、私たちの社会的生のさまざまな局面で作動しているということについて、いま一度検討することができた。
ところで、コーヒーブレイクやエクスカージョンなどでの研究交流の時間に、数多くの参加者から私の発表にポジティブなコメントをいただくことができた。とりわけ多かったのが、「ンベンベやバトラーの理論にはあまり触れてこなかったが、和解学が扱う問題系に対して非常に大きな示唆があることに気づいた」という趣旨のコメントであった。このようなコメントによって、ポスト構造主義哲学は和解の条件を批判的に再考する上で重要な思想潮流であるにもかかわらず、和解学においてはいまだ十分に認知されていないことに気づくことができた。
また、本記事の冒頭で述べたように、本大会では、理論的研究だけではなく、和解実践に関する事例研究の発表も数多くおこなわれていた。私は、そのような発表を聴くなかで、世界中のさまざまな地域の紛争においてネクロポリティクスが作動していることを再確認することができた。
本大会への参加全体を通して、私の研究を発展させていくことで、和解学に新たな理論的フレームワークを提供するものになりうるかもしれない、という展望を抱いた。その成果を論文としてまとめ、批判理論に関する国際学術誌Constellations: An International Journal of Critical and Democratic Theoryなどに投稿することを検討している。

【写真】学会会場のニコシア大学の概観
文献
Butler, J. (2015). Notes toward a performative theory of assembly (Kindle ed.). Harvard University Press.
Foucault, M. (2004). Naissance de la biopolitique: Cours au Collège de France 1978–1979 (M. Senellart, Ed.). Gallimard/Seuil.
Mbembe, A. (2019). Necropolitics (S. Corcoran, Trans.). Duke University Press.
Mbembe, A. (2022). The earthly community: Reflections on the last utopia (S. Corcoran, Trans.). V2_Publishing.
Read, J. (2009). A Genealogy of Homo-Economicus: Neoliberalism and the Production of Subjectivity. Foucault Studies, 25–36. https://doi.org/10.22439/fs.v0i0.2465
佐藤嘉幸『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』人文書院、2008年。
佐藤嘉幸『新自由主義権力と抵抗』人文書院、2026年。