ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2026 キプロス 国際和解学会

IARS国際学会参加報告書

神山 かおり

ベルリン自由大学 博士課程

1.発表内容の概要

本発表は、鹿児島県に行政的に編入された人口約10万4千人の諸島・奄美群島を、ジョルジョ・アガンベン(1998; 2005)の理論的概念である「例外状態」および「例外空間」の観点から歴史的に考察したものである。ポストコロニアル研究・先住民研究の知見が日本の内部的周縁地域へと関心を拡大しつつある近年の学術的動向を背景に、本発表は次の論点を提示した。奄美の慢性的な経済的周縁化、すなわち一人当たり所得が全国平均の約74.5%にとどまり、生活保護受給率が全国の2倍以上に達する現状などは、地理的孤立のいわば偶然の帰結ではなく、1611年の薩摩藩による奄美諸島の植民地的併合以来、構造的に再生産されてきた排除のメカニズムが堆積した結果に他ならない、という主張である。

この理論的命題を実証するため、本発表では二つの事例を検討した。第一は、分断財政法(1888〜1940年)と砂糖消費税法(1901〜1928年)に関わる財政・課税の問題である。この枠組みの下、奄美の財政は同一県内に正式に包摂されていたにもかかわらず、鹿児島本土とは意図的に分離して運営された。島の総財政収入の60〜70%を占めたとされる砂糖税収は中央へと収奪される一方、開発予算の配分は組織的に抑制された。1894年頃の鹿児島県行政記録は、この論理を明示的に示している。1925年の一人当たり開発予算の格差(鹿児島本土7円60銭に対し奄美64銭)は、この政策の構造的性格を端的に示す数値である。アガンベンの言葉を借りれば、奄美は「内なる外」、つまり歳入徴収の対象として主権秩序に形式的に包摂されながら、再分配と開発の保護からは排除された空間であった。

第二の事例は、いわゆる「奄美の原爆乙女たち」の検討である。戦時期、奄美大島から多くの若い女性(多くが戦時贅沢品禁止令によって大島紬の機織りの仕事を追われた元職工たち)が女子挺身隊として動員され、長崎の三菱軍需工場へ送られた。1945年8月9日、彼女たちは被爆者となった。戦後、奄美はアメリカ軍政下(1945〜1953年)に置かれ、奄美の被爆者たちは日本の被爆者援護立法の適用外に置かれ続けることになり、その状態は復帰後も40年以上にわたって続いた。彼女たちは帝国の臣民として徴用されながら、補償の対象となる政治的主体としては切り捨てられた。これこそが、アガンベンが「裸の生(ゾーエー)」への還元と呼ぶ事態の典型的な事例であると本発表は論じた。すなわち、国家に対して権利請求を可能とする政治的地位(ビオス)を剥奪された、生物学的存在への矮小化である。この二つの事例を合わせて読むことで、単なる怠慢ではなく行政的設計によって作動する、持続的な統治の論理が浮かび上がる。すなわち、奄美の日本国家への包摂は、常に、正式な帰属が本来保障すべき保護からの同時的な排除を条件として成立してきた、という論理である。

2.質疑応答

質疑応答においてパネルのチェアから、台湾における植民地的主体性とイデオロギー形成を考察した研究書『フォルモサ・イデオロギー(2003)』を、本発表の理論的枠組みとの生産的な対話相手として提示した。複数の植民地的管轄が重層した台湾の経験と、それが生み出したイデオロギー形成は、奄美が置かれた行政的狭間という条件と構造的な親和性を持つ。比較事例としてこうした研究を取り込むことで、東・東南アジアの異なるポストコロニアル文脈を横断する形で「例外」概念をより厳密に検証することが可能になるだろう。

より踏み込んだ問いとして、発表において明示的に論じられなかった緊張関係、すなわち、奄美の島民自身の主体性・抵抗・「声」の相対的不在が指摘された。主権権力の客体としてのみ描かれかねない枠組みの中で、政治的アクターとしての島民はどこに位置づけられるのかという問いである。この指摘を受けて、発表では論じ切れなかったフィールドワークの知見を、三つの事例を挙げて補足する形で応答した。

第一に、1990年代、奄美大島は日本、あるいはアジア初とされる「自然の権利」訴訟の舞台となった。地域コミュニティが自然環境そのものを法的主体として援用し、国家が認可した開発事業を争ったこの訴訟は、1990年代の日本においては極めて先見的な試みであり、現在エクアドルやニュージーランドをはじめ世界各地で主流化しつつある「自然の権利」の法的枠組みを数十年先取りするものだった。とりわけ重要なのは、この法的戦略が同時に地域的自治の主張を迂回的に体現していたことである。通常の政治的回路を通じて国家に異議申し立てる術を持たない島民たちは、生態的「人格」の言語を動員することで、正面からは封じられていた自律的統治への権利主張を行った。第二に、アメリカ軍政期(1945〜1953年)、経済的支援も制度的機会もインフラ整備も与えられないまま放置された奄美の島民たちは、日本本土への復帰を求める署名運動を島全体で組織し、約98%という署名率を達成した。この数字が持つ意味は、占領期の特殊な政治的文脈の中で解釈される必要があるとはいえ、行政的放棄という極限状況の下における集合的政治動員の驚異的な能力を如実に示している。第三に、同じアメリカ統治期、本土がすでに六・三・三制を導入していたにもかかわらず奄美には同等の教育資源が与えられなかったため、地元の教師たちが密航という形で九州に渡り、教科書や教育資材を島に密輸して子どもたちに授業を続けた。この「教育の密輸」という行為は、行政的狭間という状況が強いた教育的剥奪への抵抗であり、奄美の子どもたちを取り返しのつかない形で遅れさせないという決意の表れである。

これら三つの事例は、アガンベン的枠組みを生産的に複雑化するものである。例外空間とは単なる受動性や裸の生の空間ではなく、政治的主体性が絶えず再主張される場でもある。しかしそれは多くの場合、正規の政治的承認の回路が組織的に封鎖されているがゆえに、迂回的な、あるいは法外の経路を通じて行われる。今後の課題は、こうした従属的主体性の形態を、それをロマン化した「抵抗」として無批判に賛美することも、例外の論理そのものへの回収として矮小化することもなく、いかに理論化するかにあるだろう。

また島民の主体性と行為能力という問いに関するとりわけ示唆に富んだ批判として、理論的枠組みそのものへの問いも提起された。台湾との比較事例とも共鳴する形で、アキル・ムベンベの「ネクロポリティクス」概念(2003)が、アガンベン単独よりも適切な理論的レンズを提供しうるのではないか、という指摘である。アガンベンの枠組みは、例外空間に置かれた人々を主権権力の客体として、政治的地位を剥奪された「裸の生」として描くことに傾きやすく、そのことによって主体性の論理を枠組みの周縁に追いやるリスクを持つ。これに対してムベンベは、植民地的・ポストコロニアル的条件の下における死と生の管理を論じる中で、極限的な支配と行政的放棄によって定義される空間においても、政治的主体性・抵抗・集合的な生の実践が能動的に生産され続けるさまを、より厳密に捉えようとする。応答で展開した三つの従属的主体性の事例は、純粋にアガンベン的な枠組みよりも、ムベンベが「デス・ワールド」および管理された不安定性の体制の中における人間的行為能力の還元不可能性として理論化するものに、より自然に接続する。この建議は傾聴に値するものであり、ブック・プロジェクトにおいて、反映させながら取り込んでいく意向である。

質疑応答を通じてさらに深められた論点として、世代間断絶の問題がある。戦中・戦後を体験した世代の島民たちは、奄美が帝国的な包摂と排除の場であったことを身体化した記憶として保持している。この記憶こそが、2019年以降フリー・プライヤー・インフォームド・コンセント(FPIC)を欠いたまま進行する軍事開発といった現在の動きを、400年に及ぶ植民地支配の構造的継続として読み解くことを可能にする。しかし、復帰後の開発の時代に育った世代にとって、この構造的支配の長い射程はもはや可読性を持たない。こうした歴史的批判意識の消滅、つまり現在の政治的動向を植民地統治の延長線として位置づけることを可能にする歴史的記憶の消失こそが、沖縄県の管轄下にある諸島との最大の構造的差異である。沖縄においては、歴史的意識のより強固な公的文化が今なお維持されているのに対して、奄美においては不可視性そのものが例外の機能として作用している。

3.キプロスという島での学び

今回の開催地ニコシアは、発表で展開した議論に対して、予期せぬほど生産的な思考の材料を提供してくれた。最終日、参加者と共にキプロスの北側の街ファマグスタを訪れた。南部との比較や醸成されてきた文化の違いを肌で感じることもさることながら、バスでの移動そのものが、すでに島の政治的状況を体現していたように思う。トルコ以外のいかなる国にも承認されていない「北キプロス・トルコ共和国」との事実上の境界を画するチェックポイントを通過して入っていく景観は興味深かった。道中の山脈の山腹には、島全体から見渡せる規模でトルコおよびキプロス・トルコの国旗が描かれている。ギリシャ出身の研究者がこの光景を目の当たりにし、抑制することなく怒りを露わにしていた。その感情の直截さ自体が、一つの教示となった。

ある主権秩序の停止と別の主権秩序の賦課が、風景にシンボルとして刻まれ、山そのものが政治的主張の媒体となっている景観。これを見た怒りは、単なる個人的感情やナショナリズムに過ぎないのではないか、という思いを得た。収奪が空間的に現前し続け、選択の余地なく目に飛び込んでくる場所に刻み込まれたまま、見ることを強いられるという、コミュニティの「身体化された記憶」の象徴にすら思えた。

また印象に残っているのは、ファマグスタでの会話だ。アイスを一人で食べていたら、一人の若い店員が話しかけてきた。彼は自分の母が分断の際に南部からこちら北部へ引っ越してきたと語った。戻りたいと思うことはないのか、と問うと、彼は微笑んで「これだけ年月が経つと家族もここにいる、仕事もここにある、友人もここにいる。戻るべき場所は、もうそれほどない」と答えた。それは、どれほど深い政治的断絶やその傷であっても、時間をかけて、日常的な生の営みによって癒やされていく構図を目の当たりにしたような気がした。