1.はじめに
2026年6月、キプロス共和国ニコシアで開催された第7回国際和解学会(International Association of Reconciliation Studies: IARS)年次大会に参加した。2025年のソウル大会に続く2回目の参加であり、今回も、和解をめぐる理論と実践について考える貴重な機会となった。
国際和解学プロジェクトへの参加を通じて、私はこれまで、韓国の過去清算を和解という観点から捉え直してきた。特に関心を持ってきたのは、国家や社会から長く排除されてきた人々や記憶が、国家によって正式に認められた後にも、なぜ問題が残り、語りや要求が続くのかという点である。
今回の学会では、朝鮮戦争期に韓国軍によって多数の民間人が殺害された居昌事件を取り上げた。1996年に「居昌事件等関連者の名誉回復に関する特別措置法」が制定され、犠牲者の認定と名誉回復が進められた後にも、なぜ問題が終わらなかったのかを検討した。
キプロスもまた1974年以来、島の南北が事実上分断されている。韓国とは歴史的背景が異なるが、異なる歴史認識やアイデンティティを持つ人々が、どのように関係を築き直すのかという課題を抱えている。今回の学会は、異なる過去を持つ人々を何が同じ社会につなぐのか、そして、過去について同じ理解に到達しなくても和解は可能なのか、そして、そもそも和解とは何を指すのかを考え直す機会となった。
2.国家に承認された後も、なぜ語り続けるのか
私はこれまで、1894年に朝鮮で起きた東学農民戦争について研究してきた。敗北した農民軍は長く「反乱者」とされ、その子孫も祖先について公に語ることが難しい状況に置かれた。
しかし、1980年代以降の民主化の中で、その評価は大きく変わった。東学農民戦争は、普通の人々が自ら社会を変えようとした運動として捉え直され、遺族も祖先の名誉回復を国家に求めるようになった。その結果、2004年には特別法が制定され、東学農民戦争は韓国の近代を形づくった重要な出来事として正式に評価された。
それでも、遺族の語りは終わらなかった。2025年の国際和解学会では、この点に注目し、なぜ国家による承認の後にも遺族が祖先について語り続けるのかを考えた。そこで見えてきたのは、祖先について語ることが、単に国家に何かを要求するためだけのものではないということである。長く沈黙を強いられてきた人々にとって、それは、自分たちが何者であり、現在の社会のどこに位置するのかを確かめる行為でもあった。
この発表から、国家による承認が実現しても、人々の語りや要求が終わるとは限らないと考えるようになった。しかし、これまで検討してきたのは、主に遺族という一つの立場から見た語りの持続である。では、国家による承認に関わる主体が複数存在する場合、それぞれの主体は同じ承認をどのように受け止めるのだろうか。今回の国際和解学会では、国家、遺族、民主化運動という複数の主体が関わった居昌事件を通じて、この問いを考えた。
3.政治的妥結としての国家承認、その後に生まれるズレ
1951年、居昌では韓国軍によって多数の民間人が殺害された。遺族は長い間、犠牲者が「アカ」だったのではないかという疑いと差別に苦しんだ。その後、民主化を背景に、1996年に特別法が制定され、犠牲者の名誉回復が進められた。
この承認を可能にしたのは、「犠牲者は無実の民間人であり、不当に殺害された」という合意だった。しかし、国家、遺族、民主化運動は、同じ承認を同じ意味で受け止めていたわけではない。
遺族にとって、承認とは犠牲者の無実を証明し、名誉を回復することだった。しかし、それによって、虐殺後の差別や貧困によって失われた生活まで回復されたわけではない。国家にとっては、事件を一部の軍人による逸脱した行為として位置づけ、責任の範囲を一定のところで区切るものでもあった。一方、民主化運動にとって、居昌の承認は終着点ではなかった。韓国各地で起きた民間人虐殺や国家暴力、さらに、それを長く語れなくしてきた反共主義を問い直す出発点だった。
つまり、同じ国家承認が、国家にとっては一つの「解決」であり、遺族にとっては「まだ終わっていない問題」であり、民主化運動にとっては「新たな出発点」であったことを強調した。
ここから見えてきたのは、国家による承認が実現しても、それに関わる主体が承認を同じ意味で受け止めるわけではないということだった。ある時点では同じ目標に向かっていたとしても、承認の後には、それぞれが異なる記憶や要求を持ち続ける。
この見方から、東学農民戦争についても改めて考えることができる。2004年の国家承認によって、東学農民戦争は、かつてのような「反乱」ではなく、韓国の近代史を形づくった重要な出来事として公的に位置づけられた。しかし、それによって、国家、遺族、地方自治体、市民団体が、この過去について同じ理解を持つようになったわけではなく、それぞれの立場から異なる語りや要求が続いている。
国家承認は、問題をすべて終わらせるものではない。むしろ、異なる人々がある時点で共有できたものを、公的な形にするものと考えた方がよいのかもしれない。そうであるなら、和解にとって本当に重要なのは、承認の後にも残る違いをどうするかという問題ではなかろうか。

【写真1】参加したセッションの集合写真
4.キプロスからの示唆:私たちは何を「共有」しているのか
では、過去について異なる記憶や考えを持ったままでも、人々は何かを共有し、共に行動することができるのだろうか。この問題を考えるうえで、今回の国際和解学会で最も印象に残ったのが、南北キプロスの合意によって設立された文化遺産技術委員会によるセッションだった。
文化遺産技術委員会では、分断を超えてギリシャ系とトルコ系の専門家が協力し、教会、モスク、墓地など、キプロス島に残る文化遺産の保存・修復に取り組んでいる。
セッションでは、ギリシャ系住民にとって重要な教会をトルコ系の人々が修復する場合、それを誰のものと考えるのか、民族や宗教の違いによる対立は起こらないのか、という質問が出された。それに対する委員会の人々の答えは単純だった。
「昔からそこにあるものなのだから、残さなければならない」。
委員会の人々は、教会やモスクを、それぞれの民族や宗教だけのものではなく、キプロスという島の「共有された遺産(Shared Heritage)」として捉えていた。ここで重要なのは、ギリシャ系とトルコ系の人々が、文化遺産について同じ意味や歴史認識を共有しているわけではないということである。それでも、それらが同じ島の歴史の一部であることを認め、共に保存することはできる。同じ過去を同じ意味で理解しなくても、その過去に共に関わることはできるのである。
また、文化遺産技術委員会が、歴史認識の一致そのものを目指す場ではなかったことも重要である。参加者は、どちらの歴史が正しいかを決めるのではなく、専門家として「目の前にある文化遺産をどう残すか」という具体的な課題に取り組んでいた。すべてについて合意するのではなく、共にできることから関係を作っていたのである。

【写真2】文化遺産技術委員会セッションでの集合写真
5.違いが残った後に、何が人々をつなぐのか
今回の居昌事件の報告と、キプロスの文化遺産技術委員会の活動を通じて、私は、異なる記憶を持つ人々を何が同じ社会につなぐのかという問題を考えた。
東学農民戦争では、国家、遺族、地方自治体、市民団体などが、それぞれ異なる立場から同じ過去に関わり続けている。一つの理解に統合されたわけではない複数の記憶が、「東学農民戦争」という一つの「器」の中に併存しているように見える。しかし、居昌事件が示すように、器があるからといって対立がなくなるわけではない。むしろ、同じ器の中に異なる記憶が置かれるからこそ、その意味や位置づけをめぐる政治が生まれる。
この点で、キプロスの文化遺産技術委員会は、さらに別の可能性を示していた。ギリシャ系とトルコ系の人々は、教会やモスクについて同じ歴史認識を持っているわけではない。それでも、文化遺産を共に修復し、保存するという実務を積み重ねている。そこで行われていたのは、あらかじめ存在する共通の歴史を確認することではなく、異なる人々が共に関わることのできる「共有された遺産(Shared Heritage)」という器を、具体的な実践を通じて形づくっていくことだったのではないか。
そう考えると、和解とは、異なる記憶を一つに統合することでも、対立をなくすことでもないのかもしれない。異なる記憶や意味を同じ社会の中に置き、その位置づけをめぐる政治を続けながらも、関係そのものを断ち切らないための「器」を形づくることではないだろうか。
今回のIARSへの参加を通じて、私の関心は、国家による承認の後にもなぜ語りや要求が続くのかという問いから、異なる記憶や要求が、どのような「器」の中で併存し、あるいは対立しながら、同じ社会に関わり続けることができるのかという問いへと広がった。東学農民戦争、居昌事件、そしてキプロスでは、その器のあり方は異なっている。何が異なる記憶を同じ社会につなぎ、その中で人々が過去に関わり続けることを可能にするのか。今回得たこの問いをさらに発展させ、今後、哲学・心理学班が刊行を予定しているRiparブックプロジェクトへの論文掲載につなげていきたい。
最後に、今回の学会参加の機会を与えてくださった早稲田大学国際和解学プロジェクトを率いる浅野豊美教授に深く感謝申し上げる。また、諸手続きにおいてご支援くださった早稲田大学の浅見志真氏、川口博子氏にも厚く御礼申し上げたい。