ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2026 イギリス・ドイツ

何をもって「和解」とするのか——ケンブリッジとイエナでのサマースクール参加報告

TEH, Huijia

早稲田大学アジア太平洋研究科 博士後期課程

※原文:英語

2026年9月26日から10月4日にかけて、国際和解学サマースクールに参加する機会をいただきました。本プログラムは、イギリスのケンブリッジ大学と、ドイツのフリードリヒ・シラー大学イエナ(以下:イエナ大学)の双方を一度の渡航で訪問できるという、大変貴重な機会でした。企画・運営にあたられた浅野豊美教授および国際和解学プロジェクトの皆様、またケンブリッジ大学のバラク・クシュナー教授、イエナ大学のマルティン・ライナー教授およびラウラ・ビジャヌエバ博士には、それぞれの機関で温かくお迎えいただきましたこと、心より御礼申し上げます。

国際教育班の一員として、イエナ大学にて「グローバル・ガバナンス機構としてのSDGs——マレーシアの大学におけるグローバルなパフォーマティビティとローカルな正義の調停」と題する研究発表を行い、博士課程での研究をもとに、高等教育におけるSDGsを通じたグローバル・ガバナンスが国際和解学とどのように接続しうるかを論じました。SDGsは、国連主導で数十年にわたり重ねられてきた環境・開発に関する首脳会議から生まれた、法的拘束力を持たない国際目標です。「人間・地球・繁栄・平和・パートナーシップ」にまたがる17の目標と169のターゲットは、2015年にすべての国連加盟国によって採択されました。高等教育の領域では、SDGsは今日、世界各国の大学戦略を方向づけ、導き、さらには評価する基準として機能しており、マレーシアの大学も教育、研究、地域連携、ガバナンス、キャンパス運営をSDGsに整合させてきました。しかし、SDGsがグローバル・ノースとグローバル・サウスに等しく向けられた普遍的理念として提示されている一方で、それは中立ではなく、持続可能性や開発の意味についての特定の前提を伴っています。すでに不平等で市場原理に強く規定された高等教育の場にこうした規範が流入することで、半周辺・周辺に位置する大学は、必ずしもローカルな正義の理解を反映しないかたちでSDGsに関与するよう圧力を受けることになります。

マレーシアのSDGs自発的国家レビュー(VNR)2025、マレーシアの研究大学5校によるSDGs関連のScopus収録論文、そしてマレーシアの大学のSDGsランキングにおける成績という三つのデータを比較したところ、国家的な課題、大学の研究、ランキング上の達成度のあいだに大きな乖離が浮かび上がりました。たとえばVNRにおいて、SDG16「平和と公正をすべての人に」はマレーシアが最も進捗の遅れている目標ですが、Scopus上の平和と公正に関する論文数は17目標のなかでも下位にとどまっています。その一方で、マレーシアの研究大学2校は、2026年のタイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)サステナビリティ・ランキングのSDG16部門において、世界第2位および第9位を獲得しています。また、国内向け年次報告書と国際向けサステナビリティ報告書の内容分析からは、同一の大学が同じエネルギー関連の取り組みを、国際向けには大学としての規範的・当然の責務として、国内向けには太陽光パネルによる電気代の節減といった実利的な利点として、異なる枠組みで提示していることが明らかになりました。さらに、大学経営層、教員、サステナビリティ担当職員への聞き取りからは、SDGsが前提とする規範がローカルな条件と必ずしも両立しない場面が確認されました。たとえばLGBTQに関する方針の要件は、マレーシアの文化や価値観と相容れない西洋的・リベラルな価値体系として受け止められていました。また、マレーシアが1951年難民条約の締約国ではないことから、難民への経済的支援をめぐる困難も指摘され、THEランキングにおける画一的な評価手法の不均衡が問題として挙げられました。これらの事例は、グローバルないし普遍的な価値を押し進める仕組みがローカルな必要や価値とどのように衝突しうるかを示すとともに、固定化された持続可能な開発の理念を一方的に課すのではなく、国家的・地域的な正義と、何が正しく公正であるかについての普遍的主張とを調停する必要があることを示唆しています。

発表後には、いくつかの貴重なご質問とコメントをいただきました。ツクルさんからは、グローバルな価値とローカルな正義を、あたかも対立するものとして対置する語の選択についてご指摘をいただきました。私としては、グローバルとローカルの弁証法を考えるうえでの複雑さを示し、SDGsの枠組みが主張する普遍的価値が、持続可能性に関するローカルな理解や国家的な必要とどのように相互作用するのかを描こうとしていました。その場では、グローバルな価値とローカルな正義は必ずしも二項対立ではなく、環境保護や保全に関わる価値のように相互に補強し合う場合もあれば、17の目標に加えて「精神性(スピリチュアリティ)」をSDG18として提唱する規範の上方拡散のように相互を豊かにする場合もあり、他方でLGBTQ方針の要件やTHEランキング報告における難民支援のように衝突する場合もある、とお答えしました。続いてビジャヌエバ先生からは、コロンビアのコーヒー農家が紛争後の生活再建に取り組んだご経験についてのコメントをいただきました。彼らはすでに持続可能な生計のための実践を現場で重ねていたにもかかわらず、報告をSDGsに整合させる必要に迫られ、最終的には資金を得るために大学の助けを借りて、自らの活動をSDGsの枠組みに位置づけ直さなければならなかったとのことでした。また小野坂さんからは、キャサリン・ウォルシュの脱植民地的教育学(decolonial pedagogies)の概念を参考文献としてご紹介いただきました。これらのご質問やコメントを総合して、国際和解学という分野の学際性を考えれば、発表の冒頭でキーワードを定義し、自らの立ち位置(ポジショナリティ)を示すことが、聴き手に研究の出発点と概念枠組みを伝えるうえで有効であると気づかされました。さらに、コロンビアのコーヒー農家の事例は、グローバルな枠組みが機関のみならず、草の根の平和構築の営みにも影響を及ぼすことを示しています。

国際和解の問題を考えるとき、国際機関をはじめとする諸アクターが掲げる普遍的な規範や価値が存在しうるでしょう。しかし、そうした普遍的規範や価値への整合を目指す過程で、そこから得られる報酬や期待される利益が、機関をして、ローカル・国家・グローバルのあいだを調停するよりも、グローバルな価値枠組みの追求へと向かわせることがあります。これは、そうした整合性を評価する国際的な高等教育の場に置かれ、ランキング上位といった評判構築の実践を通じて正統性を確保する必要に駆られている大学にとって、とりわけ当てはまります。すなわち、とくに半周辺・周辺に位置する大学は、ランキングの評価手法を介してSDGsのようなグローバルで測定可能な価値枠組みを優先し、ローカルな持続可能性の概念や必要を見落としてしまうことがあるのです。他方で、前述のSDG18「精神性」の提唱や、難民への経済的支援やLGBTQ方針に関する規範への異議申し立てといった動きは、グローバルな価値とローカルな価値の和解に向けた相互学習の可能性を示してもいます。

[虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑——ドイツの中心的なホロコースト記念碑、ベルリン、筆者撮影]

[ホロコーストに至る出来事を展示する情報センター、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑、ベルリン、筆者撮影]

国際和解学という分野について振り返るとき、とりわけドイツでの滞在は、グローバルとローカルの弁証法、そして世界の多様性について再考する契機となりました。ベルリンでは、ホロコーストのユダヤ人犠牲者を追悼する「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」を訪れることができました。敷地内には地下の情報センターが設けられていますが、墓石を思わせるコンクリート碑の迷路のような配置のために、入口を見つけるのは容易ではありませんでした。高さの異なるコンクリートの塊のあいだを歩くうちに、名もなき墓標のただ中にいるような感覚を覚えました。設計者ピーター・アイゼンマンの言葉を引けば、「この記念碑には目標も終わりもなく、出入口もない……そこには郷愁もなければ過去の記憶もなく、ただ個々の経験という鮮烈な記憶だけがある。今日、私たちは過去を、それが現在に現れるかたちを通してしか理解できない」。マレーシアで育った華人としての立場から、私はこれまで、ドイツが第二次世界大戦とホロコーストの蛮行について、集合的な歴史的責任と補償を通じて責任を引き受け、その責めを認めてきた国として語られるのを、年長者たちからしばしば聞いてきました。それは、日本の戦時中の行為に対する認識が、とりわけ韓国、中国、東南アジアとの関係において依然として不十分で論争的であり続けているという、東アジアにおける和解のパラドックスと対比されてきました。もっとも、この対比自体が記憶の政治をめぐる研究者のあいだで議論の対象となっており、戦後の占領体制、冷戦下の立ち位置、それぞれの継承国家が地域において占める位置など、単純な比較を難しくする相違も存在します。私はこれを、自ら十分に検討した見方としてではなく、育つなかで受け取ってきた比較として記しておきたいと思います。そして今回のサマースクールは、機会があればそれをあらためて検討してみたいという思いを抱かせるものでした。グローバルな価値とローカルな正義という国際和解学の視座から見るとき、私たちは残虐行為の記憶にどう向き合い、過去への適切な認識と敬意をもって、被害者にとって受け入れうると同時に、加害国あるいはその継承社会にとっても実行可能な、正義にかなうかたちでそれを現在にどう形づくっていくのか——これは依然として探究されるべき難題であり続けています。