ニューズレター・エッセイ

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和解学に関連するニューズレター・エッセイをご紹介します。

2026 イギリス・ドイツ

歴史を学び、決着を模索する:ケンブリッジ、イエナ、ミュンヘンからの考察

カオ・ティ・ミン・チャウ

早稲田大学 国際和解学の探究プロジェクトのジェンダー&エスニシティ班および国際教育班 リサーチアシスタント

原文:英語

1. 発表の概要

筆者の発表「Divided by Vietnam, United by Germany? Intra-Community Reconciliation in the Vietnamese Diaspora」では、予備調査の結果と、それを受けて行った研究設計の見直しを報告した。ドイツは、同じ紛争の対立する両側からベトナム人を受け入れた。1979年以降は南部出身の難民が西ドイツに、1980年以降は北部出身の契約労働者が東ドイツに到着した。1990年の再統一により、両集団は一つの国家のもとに置かれた。本研究は、これらの移住者が受け継いだ分断とどのように向き合っているのか、また共通の受け入れ社会がその関係にどのような作用を及ぼしているのかを問うものである。

はじめに、日本と米国で学ぶベトナム人留学生を対象とした先行の縦断研究から導いた「和解のスパイラル」モデルを紹介した。このモデルは和解を循環的な過程として捉え、後退を過程に内在するものとみなし、より深い理解に基づく怒りを前進の指標と解釈する。続いて、ベルリンのエスノグラフィーにおいてネーションとナショナリズムを論じたSu(2022)との関係で、本研究の位置づけを示した。本研究は、1954年の移動と継承された断絶という層を加え、和解と「区切り(closure)」に焦点を当て、ミュンヘンを出発点とする。

予備調査は、2026年6月にミュンヘンで行った7件の会話からなる。会話はベトナム語で行い、参加者の主導に委ねた。暫定的な知見は次の四点である。

  • 参加者は一つの会話の中で過去に対する複数の立場を組み合わせていた。したがって、これらの立場はレパートリーであり、人の類型として割り当てることはできない。
  • ドイツでの苦労は分断を越えて共有されているが、国を失った経験は一方の側だけのものである。そのため、連帯は分断を迂回する形で成立している。
  • 旧社会主義圏から来た参加者は、恥じることなくベトナムに帰れることを根拠に、1954年および1975年の移住者より自らを上に位置づけていた。
  • 参加者は hòa giải(和解)という語を拒み、むしろ「区切り」に近いものを望むと語った。区切りは個人的なものであり、相手を必要としない。

最後の知見は、未解決の事柄に繰り返し立ち戻ることを前提とするスパイラル・モデルに対する挑戦となる。発表の締めくくりとして、第二段階の設計を示した。調査地はミュンヘンとベルリンとし、出国経路の違いに沿ってサンプリングを行い、フィールドワークの一回を4月下旬に合わせて実施する。

議論の大半は一つの問題に集中した。参加者が「和解」という語を拒む場合、何が和解の証拠となるのか、という問題である。

最初のコメントは、何を観察すべきかに関するものであった。帰化、とりわけベトナム国籍の放棄は、その人とベトナム国家との関係を示す指標になりうるという提案があった。次に、和解は用語の問題であるだけでなく、具体的な出来事に関わるものだという指摘があった。関係は区別して扱う必要がある。すなわち、国との関係、難民どうしの関係、世代間の関係である。家族の記憶は継承され、人々を現在の政府や、別の経路で来た難民と結びつける。重大な出来事には直接目を向けるべきだとされた。

続いて、議論は区切りとスパイラル・モデルに移った。区切りは、自分自身との和解、すなわちその人にとって問題を終わらせる内面の平穏として理解された。スパイラルについては、このモデルが歴史とアイデンティティへの省察を前提としているのに対し、日々の仕事に追われる人々にはその時間も意欲もない場合がある、という指摘があった。家族の記憶が彼らの反応や二つの政府に対する感情にどう影響しているかを尋ね、アイデンティティについての明示的な省察はあまり期待しないほうがよい、という助言であった。

技術的なコメントもいくつかあった。和解の定義は国や集団によって異なるため、この事例に適した作業定義が必要である。hòa giải の英訳には注意を要する。この語を拒む参加者は、その語の特定の用法を拒んでいる可能性があるからである。談話分析を用いれば、集団による用法の違いを示すことができる。参加者が一度も口にしない和解を研究者が主張できるのか、という筆者の問いに対しては、主張を先行研究に照らして検証し、適合するかどうかを確かめ、参加者が与える意味から離れないように、という助言があった。データを概念に合わせる必要はない。

議論の最後は、他の分断されたディアスポラとの比較に関する筆者の問いを取り上げた。比較事例として脱北者が挙げられ、北朝鮮出身者を平和構築の担い手とみる見方も紹介された。第三国に定住した脱北者は、馴染めないと感じることが多く、居場所を得るためにキリスト教の共同体に加わったり改宗したりする人もいる。彼らは生い立ちや感情について率直に語るが、筆者のベトナム人参加者にはそれがほとんど見られなかった。したがって、北朝鮮と韓国の関係は部分的な類例にとどまる。キューバの事例にも言及があり、オバマ政権期の和解への傾向や軍の役割が挙げられた。

2. コメントから学んだこと

コメントはとりわけ有益であった。本研究は筆者にとって新しい方向性だからである。これまでの研究は教育分野であったが、本プロジェクトは個人の経験とアイデンティティを扱うため、概念と方法の両面で指針を必要としていた。

概念と証拠

第二段階の前に和解と区切りを操作的に定義し、分析ではベトナム語の用語を保持し、参加者が hòa giải をどのように用い、あるいは拒むかを記録する。参加者が和解を名指さない場合は、彼らが与える意味を報告し、筆者の解釈を先行研究に照らして検証する。感情にもより重きを置く。区切りを内面の平穏とみるコメントと、和解への心理的欲求に関するライナー先生の指摘を合わせて考えると、予備調査の資料に現れた恥、怒り、悲しみは、それ自体として分析に値する。

今後の取り組み

インタビューガイドを改訂し、国籍に関する決定、家族の記憶、具体的な出来事、両政府に対する感情を含める。まず日常生活について尋ね、アイデンティティについての省察は現れることも現れないこともあるものとして扱う。また、北朝鮮とキューバに関する文献を比較事例として読み、自分自身あるいは自集団との和解、およびディアスポラが本国社会に与える影響に注目する。今後深めるべきテーマが二つ残っている。各コミュニティの中で何が語れ、何が語れないのか。そして、ディアスポラが国家建設にどのように貢献するのか。

3. その他の学び

ケンブリッジ。 クシュナー先生と浅野先生のやりとりは、プロジェクトの枠組みから抜け落ちているものを明らかにした。特に三点が印象に残った。国家建設の位置づけ、基調講演における理論の役割、そして「西洋」の意味である。「西洋」は実際には米国と英国のみを指すことが多い。この最後の点は、使用言語が研究の視野を限定していることを反映している。議論ではまた、日本およびアジアと世界における日本の役割を新たに理解することは、世界史を読み直すことに等しいという見方が示された。別の言語で研究を発表することもこの作業の一部とされ、これらの論点はいずれも教育の役割へとつながる。これは筆者の授業と国際教育に関する研究に直接関わるものである。

イエナ

ライナー先生の講義「Negotiation and Reconciliation」は、交渉が和解の構成要素であること、また人には和解への心理的欲求があることを論じた。二つ目の主張は、筆者が自分の資料を読む見方を変えた。この主張は、和解を集団間の関係だけでなく個人の感情生活の中にも位置づけるものであり、筆者の参加者が区切りを置いていたのもまさにそこであった。

ミュンヘン

筆者はライプツィヒ視察には参加せず、ワークショップの後にミュンヘンへ移動し、10月2日から3日まで2日弱滞在した。ミュンヘンは2026年6月に予備調査の会話を行った場所であり、イエナで受けたコメントが記憶に新しいうちに、同じコミュニティを再び訪れることができた。

この訪問には三つの目的があった。第一に、調査地に近い場所でコメントを振り返り、それぞれが今後の質問をどう変えるかを検討することである。第二に、ベトナム人コミュニティの人々と気軽に話をすることである。レストラン、サロン、教会、寺院で約12人と話をし、そのうち3人は6月の参加者であった。予備調査の教訓とイエナでの助言に従い、会話はインフォーマルなものにとどめ、日常生活について自由に語ってもらい、筆者の側から hòa giải という語を持ち出すことはしなかった。第三に、第二段階に向けた協力者の候補を探すことである。予備調査のサンプルは出国経路の点で偏りがあったため、6月の調査で十分に含められなかった経路の人々を特に探した。

今回の訪問では、正式なインタビューやデータ収集は行っていない。訪問の意義は準備にある。コミュニティとのつながりを新たにし、主題により間接的に近づく方法を試し、第二段階に必要な協力者のリストを作り始めた。

4. 個人的な振り返り

ケンブリッジの会議では、多くの時間、議論についていけないと感じていた。大半のセッションは日本語で行われ、報告は外交史・政治史を扱っており、筆者の専門の外にあった。議論の大筋は追えたものの、それを評価したり討論に加わったりするための背景知識が足りないことが多かった。

クシュナー先生の言葉に励まされた。先生が主導した議論は、使用言語が研究者の視野を限定することを認め、別の言語で発表することを和解学の営みの一部として位置づけていた。これを聞いて、自分の困難は国際的な研究に共通する条件であり、努力と教育によって対処できるものだと考えられるようになった。

この経験はまた、歴史をより真剣に学ぶきっかけとなった。歴史は、今日私たちが手にしているものすべての土台である。ケンブリッジで論じられた安全保障体制、憲法、領土処理は、今も東アジアの関係を形づくっている。筆者自身の研究主題についても同じことが言える。在ドイツ・ベトナム人の間の分断は1954年、1975年、1989年から1991年に始まっており、参加者の現在の感情は、それらの出来事を抜きにしては理解できない。筆者はこれまで、現在の経験とアイデンティティからディアスポラ研究に取り組んできた。参加者の語りを解釈し、語られないことに気づくためには、歴史的事実をより確かに把握する必要があると、今は考えている。

このように、二つの会合は互いに補い合うものであった。ケンブリッジは筆者の歴史知識の不足を示し、イエナは筆者にとって未知の領域である研究に具体的な指針を与えてくれた。その後、より明確な問いと、プロジェクトの方向性に対するより大きな確信をもってミュンヘンに向かった。