原文:英語

ドイツのイェナ大学で、私の研究プロジェクトについて発表す る機会を得た。
今回の研究は、インドネシアが経験してきたテロリズムの問題から出発している。特に 大きな転機となったのが、2002 年に発生し、200 人以上の犠牲者を出したバリ島爆弾テ ロ事件と、首都ジャカルタの JW マリオット・ホテルで起きた爆破事件である。こうし た出来事を背景として、インドネシア社会が宗教を動機とする暴力とその影響にどのよ うに向き合ってきたのかを考えることが、研究の出発点となった。
私の研究では、2020 年から 2024 年にかけてインドネシアで進められた「宗教的穏健性 (religious moderation)」教育政策に焦点を当てている。特に、テロ組織が社会に植え 付けようとしたイスラム教やその他宗教に対するイメージに対して、この政策がどのように対応しようとしているのかを検討している。
文化的記憶研究の観点から見ると、イデオロギー的な暴力によって多数の人々が犠牲になる出来事は、「文化的トラウマ(cultural trauma)」として捉えることができる。 Mullis は、こうした暴力が直接的な被害者だけに影響を与えるのではなく、集団が共有するアイデンティティや記憶そのものにも影響を及ぼすと論じている。そのため、社会は「意味を言語化し、共有する営み(discursive meaning-making)」を通じて、集団的 な苦痛や長く続く喪失感を理解しようとする。文学やその他の文化的表現も、その過程 の一部となり得る。
インドネシアの状況を見ると、さらに複雑な問題が浮かび上がってくる。2017 年、シャリ フ・ヒダヤトゥラ国立イスラム大学のイスラム社会研究センター(PPIM)が実施した 調査では、学生の 58.5%に宗教的過激主義につながる傾向が見られ、51.1%には不寛容な傾向が確認された。また、34.3%の学生には、実際の行動として不寛容さが表れてい た。この結果は、若い世代が宗教的な違いをどのように理解しているのかについて、重要な問題を提起した。
翌 2018 年には、PPIM がインドネシア各地のイスラム教徒の教師を対象として、多様性に対する意識について調査を行った。その結果も深刻なものだった。インドネシアの教 師の約 63.07%が、他宗教の信者に対して不寛容な意見を持っていることが示された。 また、質問票の回答を分析すると、56.90%の教師に不寛容な傾向が確認された。
多様な文化や宗教によって成り立つインドネシア社会において、異なる背景を持つ人々が共に暮らすためには、宗教的寛容さが欠かせない。こうした調査結果は、宗教的不寛 容を単なる個人の問題として扱うのではなく、教育者、政府、宗教団体など、社会のさ まざまな主体が向き合うべき課題として捉える必要性を示した。その一つの政策的な対 応として、インドネシアでは宗教的穏健性を重視する教育政策が導入された。
今回の発表後の質疑応答では、「宗教的穏健性」という概念を和解(reconciliation)の 観点からどう捉えることができるのかについて、興味深い議論が生まれた。私の研究 は、主に教師の視点から宗教的穏健性がどのように実践されているのかを扱っている。 そのため、宗教的穏健性そのものが、社会の和解や調和の形成にどのように貢献し得る のかについては、まだ十分に検討できていないことに気づかされた。
もう一つ、より根本的な問いも提示された。それは、宗教的穏健性教育が、平和を維持 するために従来の教条的な宗教教育のあり方をそのまま維持することを目的としている のか、それとも、学生が自分自身の信仰について難しい問いや、時にはタブーとされる 問題についても考えることを促しているのか、という問いである。
この二つには大きな違いがある。宗教的過激主義を避けるよう教えることと、自分がな ぜその宗教を信じているのかを深く考えるよう促すことは、同じではない。
これまでの観察や文献の分析、そして私自身の経験を踏まえると、現在のインドネシア における宗教的穏健性教育は、宗教を極端な形で実践することを避け、異なる宗教の信 者同士の対立を防ぐことに重点を置いているように思われる。つまり、異なる宗教を持 つ人々が平和的に共存することが大きな目的となっている。
一方で、自分自身の信仰を批判的に考える力や、異なる宗教を持つ人々との間で、より 深く意味のある対話を行う力については、必ずしも同じ程度の emphasis が置かれてい ないように見える。
発表後、特に私の印象に残ったのは、Laura Villanueva 博士からの質問だった。博士 は、現在のインドネシアの状況が続き、若い世代が自分自身の信仰について批判的に問い、深く理解するための力を十分に身につけないまま成長した場合、10 年後、20 年後 のインドネシアはどのような社会になっているのか、と問いかけた。
この問いに適切に答えるためには、さらなる研究が必要である。私自身、現時点で明確 な答えを持っているわけではない。ただ、インドネシア人としての自分の経験から、懸念を感じる部分はある。
インドネシアは、世界でも最大規模の宗教人口を持つ国の一つとして、自らを非常に宗 教的な社会として位置づけている。しかし、自分の信仰を理解するための適切な知識や 思考の方法が与えられなければ、宗教的な実践は次第に表面的なものになってしまう可 能性がある。
表面上は、社会の調和が保たれているように見えるかもしれない。その一方で、人々が 宗教を単なる儀礼や日常的な習慣として捉えるようになり、信仰が持つ精神的な意味と のつながりを失ってしまう可能性もある。また、宗教の違いによって人々が容易に対立 させられる状況も生まれ得る。長期的には、こうした状況が宗教そのものへの関心や信 頼を弱め、不可知論的な考え方が広がることにつながる可能性さえある。
これは、宗教が単純に消えていくという意味ではない。むしろ、宗教教育が適切な方法 で行われない状態が続けば、宗教を実践する人々にとって、その意味そのものが徐々に 失われてしまうのではないか、ということである。
ライプツィッヒを訪れた際には、聖ニコライ教会(St. Nicholas Church)も見学した。そ こで Martin Leiner 教授から、ドイツ統一の過程において宗教が果たした重要な役割に ついて説明を受けた。
教会の中にあった柱の一つは、ドイツ統一を求める抗議運動の際に外へ運び出され、運 動の象徴となったという。その象徴が表していたのは、教会そのものだけではない。宗 教が人々を結びつける力を持つことを示すものでもあった。教会の内部には、イエスが銃を壊している姿を描いた絵もあり、暴力に反対する教会の立場が表現されていた。こうした宗教の役割を見たことは、私にとって非常に興味深い 経験だった。
ドイツでは、教会に行って祈るといった形式的な宗教儀礼に日常的に参加する人が、イ ンドネシアほど多くない。しかし、その一方で、宗教的な価値観が道徳観や日々の生活の中に表れている場合がある。この点は、宗教儀礼が社会生活の中で比較的目に見えや すいインドネシアとは対照的である。

end of the Cold War at Leipzig.
今回のプログラムを通じて、私は自分の研究だけではなく、和解という概念そのものに ついても考え直す機会を得た。
若手研究者として、私は「象牙の塔(ivory tower)」の問題を常に意識している。研究 者が学術的な議論や理論の中に閉じこもり、現実の社会から離れてしまう危険性であ る。
今回、研究者や専門家、実践者と直接話し、議論を交わしたことで、自分の研究につい て新しい視点を得ることができた。また、ドイツの社会や宗教的・歴史的背景を実際に 見ることで、和解を単なる理論上の概念としてではなく、教育、記憶、宗教、歴史、そして人々の日常的な経験によって形づくられる社会的なプロセスとして捉えることがで きるようになった。