哲学・心理学ジェンダー&エスニシティ
ドリンシェク・サショ
Dolinšek, Sašo

立命館大学 非常勤講師
代表業績
- 学術論文:2020「管野須賀子の〝生き方〟 と無政府主義の必然」年報人間科学、 41番2号、111-127頁.(査読あり)
- 学術論文:2022 ‘Desire Versus Ego: On How Kaneko Fumiko Transcended Stirnean Egoism’, in Asian Studies 10:3, pp. 241-272.(査読あり)
- 学術論文:2023 ‘The All-Encompassing Inclusivity of Exclusion: Kaneko Fumiko’s Universalist Tendencies’ in Japan Review 38, pp. 173-196.(査読あり)
専攻分野
日本アナキズム運動史、精神分析、現代大陸哲学。
目指す研究者像
和解学と言えば、国民、国家、民族といったような集団単位を扱うのが主である。例えば日本と韓国、ドイツとユダヤ人、ツチとフツ等、相異なる国籍かエスニシティに属する人々の間の葛藤が一般の対象となっている。それに対して、私はその定着した枠組みを超越し、別のパラダイムを想定することで和解の可能性を再考してみたい。
研究テーマ
私は博士論文で大正時代に活動した日本アナキスト金子文子をテーマとしている。その女性の研究に関連して、私は2つの点を指摘したい。彼女は「無籍者」(戸籍に入っていない事)、つまり日本国民として認められていない状態で生まれた。このことは彼女に多くの苦しみをもたらしたが、同時に他の排除された人々、特に朝鮮人との連帯を形成する能力も与えた。その2つの点を出発点としながら、和解学に近づくため、私の和解学の研究を2つの段に分けて行いたい。
第1段は精神分析の概念を介して「日本人」というアイデンティティの構造を分析することである。具体的に言えば、日本人というアイデンティティはいかにしてある人を排除して初めて一貫したものとして成り立つかを探る。すなわち、そのアイデンティティはある人を排除することを必要とするということである。したがって、日本人は日本人たるべく、金子文子や朝鮮人等のような外の人すなわち他者から常に一線を画しその他者の排他をせざるを得ない。私はいわゆる日本人論、つまり日本人のアイデンティティをめぐる理論の系譜をさかのぼり、他者を排除せざるを得ないという形態を取った他者に対する依存の構造を繰り広げる。
次に第2段は、日本人というような、常に何かの他者を排除せざるを得ない民族的もしくは国民的なアイデンティティを超克する可能性を考察する。例えば、金子文子が日本人というアイデンティティ捕らわれなかったのみならず、民族性や国民性をものともせず、朝鮮人にでも同一視できたことがその可能性を示唆となる。その鍵は金子や朝鮮人が社会から排除された主体になったところに求めるべきだと私は考えている。社会の中に自分独自の位置を与えられていないからこそ、その社会に対して希望を投じていない。その結果、民族性や国民性といったようなアイデンティティとそれにつながる集合的記憶が他者との同一化を妨害するものにならないのである。ただし、私が検討したいのは、民族性や国民性といったようなアイデンティティを超克した後に何があるかという疑問である。人類というようなより一般的で広いアイデンティティしかないか、それともアイデンティティ全般を超克する可能性もあるか。私は後者の方に偏り、アイデンティティのその彼岸を階級闘争に求めている。階級闘争に労働者として参加するのは、労働者というアイデンティティを抱くではなく、むしろその社会における位置のない者として参加することを意味すると私は考えている。しかも、そのアイデンティティの無さこそ真の普遍的価値を帯びていると主張している。今後の研究はこのアイデンティティの無さの構造を分析したいのである。
ワーキングペーパーの仮題目
アイデンティティを超克する可能性をもたらす階級闘争
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